【大学講師と大学生が語るビジネス Vol.3】天才技術者・本田宗一郎

岩本和代

りえ講師……31歳の女性。某公立大学講師として勤務。マーケティングのゼミを担当。博識で前向きだが、学生には「りえちゃん」と呼ばれており、中々講師扱いされていないのを気にしている。

こーた……20歳の男性。大学2年生。りえ講師が担当するゼミに所属している経済学部生。真面目さと適当さが絶妙なバランスの持ち主。

はぁ……


俺の助手席に乗りながら、ため息って酷くない?


本当に最悪だわ。いきなりの大雨。そして私の車はレッカーされて、その結果生徒の車に乗ることになるなんて


レッカーされたのと、いきなりの大雨は確かに最悪かもしれないけど、俺の車に乗ることは最悪ではないんじゃない?


それが一番最悪よ


ひどいなー。なんかさ、ワクワクしない? 狭い密室で男女が二人きりっていうのって


はぁ、ホントになんで車に乗っちゃったんだろう。売店で傘を買えばよかった……


もう、りえちゃん! ほら、悪い所に目を向けていても仕方ないし、楽しいこと考えようよ


楽しいこと? ……あぁ、講義でもする?


なんでそうなるかな……まぁ、それで気分が前向きになるならいいけど


講義か……。じゃあ、車繋がりでホンダの話でもしようか


ホンダ? N-BOXとかフィットとかだっけ


そうそう。ホンダは本田宗一郎という一人の技術者が作った会社なのよ


技術者? ということは、町工場みたいな感じで、どんどん大きくなっていったってこと?


んー、本田宗一郎は町工場で収まるような器じゃなかったから、ちょっと違うわね


え? じゃあ、どうやって車を販売し始めたんだよ?


彼は1906年に静岡県浜松市で生まれたんだけど、実家が鍛冶屋を営んでいたのよ


へー。工場とかじゃなくて、鍛冶屋っていうのが歴史を感じるね


で、学校を卒業後、上京して東京本郷の辺りにあった自動車修理工場「アート商会」に入社。といっても、この当時は丁稚奉公だけどね


使いっ走りってことだろ?


でも、当時から腕はよかったんだろうね


入社の翌年に関東大震災があったんだけど、火の海から工場の高級車を命がけで初めて車を運転して救い出したことで、親方から認められて技術見習いをさせてもらえるようになったのよ


火事の時に高級車を守るために初めて運転ってすごい……。普通なら自分が逃げ出すだけで精いっぱいだよな


そして、自動車の修理技術者として頭角を現し、レース車両の製作をやったり、工場のチーフになったりしていったという経緯があるわ


チーフ!


しかも15歳で丁稚奉公で入社して、16歳で弟子になった本田宗一郎は、21歳の時にはのれん分けを許されて故郷に帰り、アート商会浜松支店を作ったのよ


支店長ってこと? 21歳だと、俺より1つ上か~。人生の歩み方が全然違うな


そりゃそうでしょ。相手は天才だもの。修理業だけでは物足りなくなった本田宗一郎は、昼は修理、夜はピストンリング開発をするようになったの


よっぽど、そういうのが好きなんだね。俺には考えられないけど。っていうか、ピストンリングって何?


自動車やバイクのエンジン内部で使われる、金属製の薄い輪っかのことよ。この部品は、エンジンが正常に動くためには絶対に欠かせないもので、非常に高度な技術が必要とされている精密部品でもあるわ


あー……何か、技術オタクが好きそうなパーツだ


でもこの開発研究はやがて、会社を作ることに繋がるのよ


え? どういうこと?


ピストンリング製造をする東海精密重工業を本田宗一郎は、30歳の時に作るのよ


でも、アート商会は?


最初の2年は移行期間で、両方に携わっていたみたいね。でも、自分で作った会社だけでも食べていけるようになったから、アート商会は自分の後輩に跡を譲ったらしいわ


アート商会も普通に儲けがたくさん出てたんでしょ?


そうね。でも、本田宗一郎の興味関心は売り上げの高さではないからね


あーそっか。製品を作り続けることに楽しさを感じている人だもんな


そのうちトヨタ自動車に部品を下ろすようになるんだけど、気が付いたらトヨタに株を取られてしまっていて、気が付いた時には子会社という状態になるの


世界のトヨタ! やっぱり関係はあるんだな。でも子会社になっても製品が売れるならよくない?


いいえ。本田宗一郎は社長だったのが、専務にさせられてしまい不満を持っていたの。ワンマン社長だったからね


人の意見を聞きたくないタイプかー。それでどうしたの?


そんな折に、彼が39歳の時、1946年のことだけど三河地震が起きて浜松工場が倒壊したの。それを見た本田宗一郎は、工場を立て直すんじゃなくて、全部トヨタに売っちゃおうと考えたのよ


それはつまり、自分で作った会社から手を引くってこと?


そういうこと。そしてその時に、二度と他人の下請けにはならない、自分たちの独自の技術で自分たちのブランドを売るという強烈な反骨精神を植え付ける結果になったのよ


そんなに嫌だったんだ……。じゃあ、その後に自分の会社を作ったわけ?


いえ、人間休業よ


人間休業?


なんか色々と疲れちゃったんでしょうね。反骨神はあるものの、一旦は無職生活を送っていたの


あのホンダの社長が無職……


でもその時に旧陸軍が無線機の発電用として使っていた小型エンジンを偶然手に入れて、これを自動車の補助動力……エンジンとして利用できるんじゃないかと閃いたの


そうして作ったのが、本田技術研究所よ。個人経営に過ぎないものではあったけどね


それが今のホンダの原点?


そうよ。でも、作っただけでは今のようにはならないわ。本田宗一郎の凄いところは、会社を作ってから再度大学へ通ったということよ


え? なんで大学?


自分の知識だけでは作りたいものが作れないと感じた本田は、その理由を教えてくれそうな学校を探して30歳を過ぎて入学したの


でも「試験を受ける時間があるなら工場で実験したい」と考えていたから、試験は受けずに講義だけ聞きに行っていたの。それを学校側が許さず、大学2年が終わる頃に退学を言い渡したのよ


そりゃ、試験を一切受けなかったらそうなるよな


[speech\_balloon id=”03″ side=”left”]本田宗一郎って凄い変人という感じもするけど、何でそうしているのかの意味はちゃんとある。偉人って呼ばれている人たちって、周りからの評価とかは気にしていない感じがすごいよ[/speech_balloon]

そうよね。そして、退学処分を言い渡されるまでの2年間で、自分が作るものが不良品になる原因をちゃんと突き止めているのよ


結果も出しているってことかー


でも本田宗一郎にも苦手なものがあるの。それは何だと思う?


苦手? 協調性とか?


違うわ。一番苦手なものはお金周りのことよ


経営か!


そう。本田宗一郎は技術者としては天才なんだけど、お金周りのこととか、それをどう販売して売り上げを伸ばすのかとかに関心が向かなかったというのもあって、苦手だったのよ


だからどんないい製品を開発できても、せっかく作った本田技術研究所も倒産の危機をすぐに迎えるの


仕事って……難しいというか、奥が深いというか


本田宗一郎自身も、このままでは自分の好きな研究や開発ができなくなる。だから、経営を全て任せられる信頼できるパートナーが必要だって思っていたらしいわ


そこは経営の実務を勉強しようとはならなかったんだ


そうね。そして、そんな本田の前に現れたのが藤沢武夫よ


藤沢武夫?


竹島弘という通産省にいた人物によって、二人は出会うことになったの


なんで竹島って人は、二人を会わせようとしたんだろう?


本田宗一郎のことを知っていて天才技術者だと思っていたし、藤沢武夫の事も知っていて、彼の先を見通す経営センスを高く評価していたの


だから、この二人が手を組めば、日本を代表する自動車会社ができるんじゃないかって思ったようね


二人を引き合わせることで、それが日本の為になると考えたってこと?


そうね。竹島さんの立場だったら、それも考えたでしょうね


実際に本田さんと藤沢さんがあった時ってどうだったの?


本田宗一郎は「この男(藤沢)なら、自分の技術を信じて、お金の心配をせずに開発に没頭させてくれる」と思ったし、藤沢武夫は「この男は本物だ。この技術を世に送り出すために自分の人生を賭けよう」と思ったそうよ


お互いにお互いのことを認め合って、一緒に仕事がしたいって思ったってことかー


そして出会って2か月後の1949年10月に藤沢武夫は常務取締役として就任して、二人の間で完全な分業体制がしかれたのよ


技術と経営に分かれるってことだよな?


そう、技術に関しては全て本田宗一郎が仕切る。経営と財務と販売は全て藤沢武夫が仕切るというもの。でも、あともう一つだけ、取り決めをしているんだけど、それはわかる?


あと一つ? 分業制はすでにできているし、他に必要なことって……?


身内を会社に入れさせないということよ


えっ!? そうなんだ。この時代の会社って、みんな基本は身内というか、自分の子どもを入れたりしていたのに


世襲制はよくないって思っていたんでしょうね。二人は1973年に一緒に引退するんだけど、それまでの24年間はこの3つの約束を守り切ったらしいわよ


すごい。二人の間になれ合いというか、甘えは一切なかったということだよな


そうね。お互いにお互いをリスペクトしていたし、お互いを信頼していたから、自分のすべきことを最大限にしようと思って仕事と向き合っていたんじゃないかしら


かっこいいー! 俺も、そういう相手と巡り合えたらなー


その前にマーケティングの分野で一流になっていないと、そういった相手とは出会えないわよ


りえちゃん、厳しい……。まぁ、自分よりも遥か上の人がタッグを組んではくれないもんなー。まずは自分かぁ


そうよ。さて、ホンダの創業話はこんな所だけど、マーケティングの視点でのお話を少しだけするわ


マーケティング……ということは、藤沢さんが行った施策ってことだね


そうよ。藤沢武夫は現代のマーケティングの教科書に載るようなことをいくつかしているんだけど、その中でも特に爆発的に製品をヒットさせたものを3つ教えるわね


よろしくお願いします!


1952年に「カブ号F型」という自転車専用の補助エンジンを発売した時なんだけど、藤沢武夫は全国の自転車屋さんに5万軒にダイレクトメールを送ったのよ


ちょ、ちょっと待って。まず疑問なんだけど、自転車専用補助エンジン? バイクとか車のエンジンじゃなくって?


本田宗一郎はその前にバイクのエンジンも作っているけど、売れなかったのよ。それにバイクは高額で、誰でも気軽に買えるものでもなかったし


じゃあ、藤沢さんが勝手に自転車専用にしたわけではないってことなんだ


そうよ。だって本田宗一郎が作るものは、本田宗一郎が考えるんだから


そっか……。じゃあ、出来上がってきたものを見て、これだったら全国にある町の自転車屋さんに連絡をした方がいいなって考えたってわけ?


そう。でも、普通はそうは考えないのよ。売り物が自転車専用のエンジンだったとしても、バイク屋に連絡をするというのが一般の考え方だったの、当時はね。


でも日本全国にバイク専門店は300店舗ぐらいしかなかったし、大手に牛耳られていたから参入できなかったのよ


あぁ、だからどこに連絡をすればいいかを考えたってわけか


そうよ。全国5万件の自転車屋さんの住所を調べ上げて、一斉に手紙を郵送したんだから


あ! そっか。ダイレクトメールって、当時は手紙か。うわ、それはすごい手間をかけてるな……


でもその結果、3万店舗から返信があったし、1万3000の自転車屋さんがホンダの販売代理店になったのよ


そっか、苦労もあるけど、ちゃんと結果を出しているんだ。すごい……


二つ目は、月賦販売よ


月賦?


当時の自転車屋って個人商店がほとんどだったから、仕入れの時に一括で支払えるだけの現金を持っていなかったのよ。


しかも、手形とか小切手での取引が普通だったんだけど、それも地方の自転車屋にとっては敷居が高いものだったの


確かに、手形とか小切手で払ってねって言われたら、ちょっとってなるかも


そこで藤沢武夫は、全国の自転車屋に地方銀行でホンダ専用口座を作ってもらい、商品を発送する前に代金を振り込んでもらう仕組みを作ったの。さらに、お客さんには月賦、つまり分割払いで買えるようにしたのよ


これなら自転車屋はリスクなく仕入れられるし、お客さんは手軽に買える。ホンダも代金を確実に早く回収できる。つまり、3者にとって嬉しい仕組みを作ったのよ


それを誰よりも先に思い付いたってことだよね。それはさすがすぎる


最後は、少し時代が進んで1963年。本田がアメリカに進出した時の話よ


当時のアメリカでは、バイクは不良や荒くれ者が乗るものという悪いイメージがあって、普通の人や女性は近づかない市場だったの。そんな中、藤沢は主婦や学生、サラリーマン、親子をターゲットにしてバイクを売ったのよ


全然違う層を狙ったんだ。でもどうやって?


広告よ。明るいイラストと写真とともに、「You meet the nicest people on a Honda(ホンダに乗ると、素晴らしい人たちに出会う)」っていうキャッチコピーを載せたの


そのおかげで、アメリカのバイクに対する社会的イメージを180度変えて、スーパーカブが大ヒット。ホンダは世界ブランドに名を連ねることになったのよ


はぁ~。人の意識まで変えてしまうのか。でも、広告というか、キャッチコピーってそういう力もあるんだね


そうね。もちろん、誰もが簡単にできることではないけどね


俺、決めたよ。りえちゃんの意識を180度変えるキャッチコピーを考えてみせる!


……あ、そろそろ家だから、降ろしてくれていいわよ


相手してよ、りえちゃ~ん

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《参考資料》
ホンダ公式WEBサイト(Honda 75年史 / 語り継ぎたいこと)
本田宗一郎著 『得手に帆あげて』(日本経済新聞出版 / 各種アーカイブ)
藤沢武夫著 『経営に終わりはない』(文藝春秋 / 各種アーカイブ)
本田財団(公式WEBサイト)
日本自動車殿堂(JAHFA)(公式)

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この記事を書いた人

岩本和代

2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。