大学を中退し、京都に戻ってきた俺は21歳という若さで任天堂の三代目社長になった。俺が爺ちゃんに対してつけた条件、「山内家の人間を自分以外すべて排除すること」の承諾を得たため、社長就任と同時に解雇した。そのせいで、当然身内からは大きな反発が起きた。
「こんなの横暴すぎる!」
「学生上がりの若造が、功労者である親類を追い出すとは何事だ!!」
さらに俺が会社に行く時はスーツを着ずに、お洒落な服と革靴を履いていったということもあり、古参社員からは「遊び人の坊ちゃん」というふうな目で見られていた。だが、だからなんだというのか、というのが俺の本心だ。俺は気楽な大学生活を過ごしていたのに、爺ちゃんに頼み込まれて社長になった。俺がしたいと言って、無理やりこのポジションに就いたわけではない。
爺ちゃんの経営センスは、経営未経験の俺でもすごいと思っている。この会社は家族経営気質が強いが、さすがにどうしようもないやつに社長を任せようとは思わないだろう。俺がもう少し歳を重ねるまで、親族の他のやつらに代理社長をさせるということも出来たはずだし、爺ちゃんだって考えたはずだ。なのにそれをしなかったということは、それだけどうしようもない奴らということになる。そんなことも分からないやつらの言葉に耳を貸すほど、俺は暇ではない。
いらないやつは切ればいいし、古いしきたりに従う必要もない。これからの時代は、俺が先頭に立って進めていくのだから、俺がルールを決める。
だが、そういう俺の態度が気に入らないやつは、社員のくせに、分かりやすく社長の俺を無視した。俺が言った仕事をできないやつは、問答無用でクビにしたが、それを見た他の社員がまた不満を言う。一体こいつらは何を考えているのだろうか。社長が社員に指示した仕事を社員がしなかったのだから、解雇の対象になっても当然のことだろう。それも分からなくなっているほど、考えが甘いとしか言えない。
ただ、戦後の労働運動の高まりもあり、社内の労働組合で大規模なストライキが起きた。情勢に流された奴らということだ。しかし俺は、ここでも妥協はしなかった。俺について来れないというなら、不要だということで次々と解雇していった。だがこれは、数年も続いたので、さすがの俺も心身ともに強いストレスを受けていた。もちろん、そういう側面は社員に見せることはなかったが……。
「大丈夫? そんなにストレスを溜めて……」
家に帰ると、妻の良子はいつも優しい言葉をかけてくれた。爺ちゃんが薦めてくれた相手との結婚だったが、良子はとても優しい人間だった。俺は孤独に慣れているが、好きなわけではない。良子がいたから、この時の辛さも乗り越えられたのだと思う。
「大丈夫。けど社長になってから数年がたったし、そろそろ新しいことを始めていかないと。社員の相手をするための会社ではないんだからな」
俺はそう自分に言い聞かせるようにそう言い、今の会社で何ができるのかを改めて考えてみた。
賭博の商品を売っている会社ではなく、玩具業界にいる会社としてできることを探したい。子どもの頃、散々「花札」でいじられた。けどそれは花札の方が売り上げとしても大きかったから。でも戦争も終わった今は、娯楽に走るのは目に見えている。であればやはり玩具……けれど、どうしたら良いのかが分からない。
「そうだ、トランプ!」
花札には並のものから高級品まであるが、トランプはまだそこまで作り込んでいなかった。娯楽向けにしたいとは思っていたが、今は先に高級品としての開発を先に進めることにする。俺は早速プラスチック製のトランプを開発し、それを世に出してみた。すると、折れにくく発色がいい日本初のプラスチック製のトランプは高級品としてヒットしたのだ。
「これはいける!」
そう思い、トランプに可能性を感じた俺は、やはりトランプを子ども向け・家庭向けにできないかと考えた。トランプもポーカーなどのイメージが強いため、賭博商品として見られがちだ。だが、こっちの方が玩具としての可能性はあるように思っていた。そうやって考案をしているうちに、社内でも俺を見る目が変わってきた。単に反発してきた奴らをクビにしていったからというのもあるかもしれないが、残っていた社員の俺を見る目は以前とは違う。社内にいた人間が思いつかなかったプラスチック製のトランプのヒットが、俺を社長として認める要因になったようだ。
思わぬ副産物を得ながらも、俺は次の一手を考えた。
「そういえば、今、ディズニーが日本進出を検討しているという話を聞いたな。あそこと提携できれば、子ども向けの市場開拓ができるんじゃ……」
そう思った俺は提携できないかの打診を行った。しかし、門前払いにあう。それでも、トランプのイメージを変えることも出来るし、ディズニーの絵柄のトランプが日本で普及すれば、ディズニーにも恩恵があるはずだという思いだけを胸に、何度も何度も交渉した。
そして1959年。俺はついにディズニーキャラクターをトランプに使用する日本国内の独占販売権を勝ち取った。そしてディズニートランプは、驚異的なヒットを収めた。トランプを賭博商品から娯楽商品としての玩具に変えただけではなく、任天堂が地方のカードメーカーではなく、全国区の企業というイメージを植え付けたのだ。
「社長! 凄い売れ行きです!」
「まだ2年しかたっていないのに、現在150万個を売り上げています」
「トランプ市場で、任天堂は約80%をシェアしています!」
嬉しい悲鳴ばかりがあちこちから聞こえてくる。
「これは……もしかして、今がその時か?」
俺は一つの決断を下した。1962年。業績が飛躍的に向上したということもあり、大阪・京都の両証券取引所への上場を果たしたのだ。この歳になってくると、俺も歳を重ねていたし、俺の実力を理解してくれた社員たちは、みな俺を社長として認めていた。甘えたことを言う社員もいなくなったし、企業としても一皮むけた、そんな印象を俺は持っていた。だからまさか、これから失敗続きの年が続くとは思わなかった――。
キャラクタービジネスで成功した俺たちは、ディズニーの柄をつけたふりかけ、インスタントライス、ポパイラーメンを作り出し、食品事業に進出した。しかし、全くノウハウがない中で始めたため、大赤字になり撤退。
トランプの流通網があるなら、車を動かせるはずだと思い、京都市内にタクシー会社を作った。ダイヤ交通という名前の会社で、他のタクシー会社がしていなかったものを取り入れた。運転手はみな制服を着て、白手袋をしているという姿に統一したのだ。初めは好調な滑り出しだったが、労働組合との対立が激しくなり、経営者の思い通りにならない社員はいらないということで、株式を売却した。
他にもラブホテル経営に手を出したり、ベビーカー事業にも手を出したりしたが、ことごとく失敗する。さらにトランプの売上で成り立っていたというのに、そのトランプの売上が落ちてきたのだ。
「社長、株価が最低基準まで落ちています」
そう、倒産寸前の危機に直面してしまったのだ。俺が社長になってからは、ずっと順調に進んでいたのに、この10年で大きく落ち込んだ。
「俺の方針が間違っていたのか……」
俺は夜の社長室で1人になり、そうつぶやいた。これまでずっとワンマンで仕事をしてきたので、困難にぶつかったとしても、それを誰かに相談をするのは違うと思っている。ワンマンできたのなら、成功も失敗も全て自分が行動した結果だ。だからこの危機的状況も、自分で解決策を考える必要がある。
自問自答を繰り返し、今までの失敗例、成功例を振り返る。その中で2つのことを決定した。1つは外部コンサルタントの言葉や他業界の常識は信じないということ。もう1つは、食料品や乗り物など他の業界にも手を出したが、あぁいうものは大企業には勝てないので、任天堂は初心にかえって「なくても困らないが、あれば楽しいもの」という娯楽に徹するということだ。
「だが、まだこれだけでは足りない……。何か娯楽という点において、新しい一手が欲しい。どうすれば……」
俺は経営を立て直すヒントを求めて、自社の工場の見回りをすることにした。これまでも何度も工場の見回りはしていたが、こんなにも頻繁に工場を見回るということはしていない。いつもと違う視点で何かないかと探すような感覚で、足しげく色々な工場を回った。
そんなある日。俺は横井軍平と出会った。彼は入社2年目で、トランプを製造する設備の保守点検を行うエンジニアだ。しかし機械が順調に動いている間は、何もすることがない。そんな中で横井は工場の工作機械を勝手に使って、木製の伸び縮みするマジックハンドを作って遊んでいたのだ。俺の心臓が、ドクンと鳴った。これはいける!
「おい、そこのお前。それを持って社長室へ来い!」
「え、あっ社長!? わ、わかりました!」
俺はすぐに社長室に横井と一緒に行き、社長室で横井が持っていたマジックハンドを確かめた。
(これは子どもが喜ぶ、今までになかった玩具になる……!)
俺はそう直感した。
「よし、横井。これをちゃんとした製品に仕上げろ」
「え? 製品って……」
「社長命令だ。いいな!」
「は、はい!」
こうして横井は製品として成り立つものに改良し、同年の1966年にウルトラハンドとして発売した。140万個の売り上げをたたき出す大ヒットとなり、任天堂の倒産は免れた。そしてこのことから俺は、一人の天才のことは信じようと決めたのだった。
その後、1970年に横井が太陽電池の原理を応用して作った、光を当てると反応するターゲットを打つ「光線銃SP」を販売。これも大ヒットとなり、全国に光線銃SPが使える射撃場を展開することにした。だがしかし……。
「うそだろ……」
1973年に第四次中東戦争が起き、オイルショックになったのだ。そのせいで日本経済がパニックになり、人々が娯楽に割くお金を渋るようになり、設備投資のために抱えた数十億という借金だけが残った。再び、倒産の危機に陥ったというわけだ。
「融資を頼む」
「いえいえ、これ以上は無理ですって」
俺は資金を得るために銀行に訪れていた。元手がなくては何もできないからだ。
「大体今のままでは、借金だって返せないじゃないですか」
「元手があれば何とかなる」
「いえいえ、無理ですって。もう玩具なんてやめて、不動産を売って借金を返したらどうですか? そうすればちょっとは融通しますから」
「娯楽の借金は、娯楽でしか返せん!」
俺はそう言い切り、銀行を後にした。だが、何とかしなければいけないと思いながらも、打開策が思い浮かばず数年が過ぎた。そんな時、知人の宮本が声をかけてきた。
「うちの息子なんだが、金沢美術工芸大学を卒業したものの定職に就いていないんだ。どうか息子の面接をしてくれないか?」
この大変な時に余計な仕事が増えたと、正直思った。今、任天堂が欲しているのは電子機器の知識があるエンジニアだけだからだ。デザインができる奴など不要。そう思っていたが、実際に彼の息子の宮本茂が持ってきた、子ども用の木製ハンガーを見て考えは一変した。像の形をしたハンガーで、鼻の部分に服をかけ、耳を動かせる工夫がされていたのだ。
「こいつの機能と遊び心を融合させるセンスは一級品だ!」
そう思った俺は、当時は存在していなかった「企画担当」として彼を採用した。その後、ドンキーコングというソフトを作って世界を制し、ファミコンへと繋げることになった。この流れがなければ、任天堂は今の形にはなっていなかっただろう。
そして2002年。俺は引退を決断する。社長になってから、ずっと任天堂のトップとして走り続けてきた。途中何度も瀕死の危機は迎えたが、全て玩具というジャンルで巻き返してきた。そんな俺が大事にしていたことは、市場調査を信じないこと。市場調査をしてその通りのものを出して売れるなら、世の中にある会社はみんな苦労はしない。とくに娯楽の世界というのは、出してみるまで分からない。最後は運で決まる。この運を呼び込むために、俺は「他人がやっていない、新しい驚き」に神経を注いだ。
俺が引退した後は、次の社長である岩田が全ての判断基準になるように伝えた。俺という強烈な個性を残したままでは、新しい感性が育たないと思ったからだ。そういう意味では、少し長すぎる社長だったかもしれないが。残りの余生は、唯一の趣味である囲碁でも楽しもう。あぁ、とてもいい人生だった。
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【筆者あとがき】
今回は4部作ということだったため、社長の移り変わりも入れた長い創業話になりました。今の任天堂の形を作ってきた歴代の社長は、その生い立ちや会社との関わり方によって、経営方針が決められてきたように思います。それぞれの社長の個性が少しでも伝わったなら幸いです。
《参考資料》
会社の沿革-任天堂(公式)
Wikipedia(山内溥 / 任天堂 / 横井軍平 / 宮本茂 の各項目)
日本経済新聞(「私の履歴書」アーカイブ、および追悼記事)
ITmedia / 週刊ファミ通(インタビュー・回顧録アーカイブ)
The Shashi(渋沢社史データベース / 任天堂項)\任天堂創業物語の一覧はこちら!/
▶任天堂創業物語【第1話・房治郎編】花札から始まった任天堂創業者・山内房治郎
▶任天堂創業物語【第2話・積良編】婿養子・山内積良が背負った任天堂の使命
この記事を書いた人
岩本和代
2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。



























