【主な登場人物】
山内房治郎
山内積良(二代目)
山内溥(三代目)
1872年。私は山内家に養子に入った。もともと福井家の長男として生まれたのだが、当時石灰の卸売りを生業にしていた山内家に跡取りがいないということで、13歳だった私は性を変えることになったのだ。
私の実父は職人であり、山内家に養子になった後も、たびたび会っていた。普通であれば、どうして父と母は私を他の家に追いやったんだろうと悲しむものだと思う。けれど、義父である山内は厳しいところはあるものの親切だったし、山内の姓を名乗るようになっても、実父実母との縁が完全に切れたわけではなかったため、悲しむことはなかった。それに忙しすぎる毎日だったからというのもあったかもしれない。
「房治郎。房治郎はいるか?」
「はい、なんでございますか。お父様」
山内家に来て1か月が過ぎた頃、夜に義父に呼ばれた。この一か月は新しい生活になれるのに精いっぱいで、まともに義父とも話ができていなかったため、内心緊張していた。
「ここでの生活には慣れたか?」
「みなさん、よくしてくれております」
「そうか。明日からは朝5時に起床し、店の周りの掃除、食事を終えたら勉強、その後、昼食を取り、職場に来い。まずは簡単な手伝いからしてもらう。いいな」
「かしこまりました」
私が子どもだった頃、まだ現代の学校という制度はなかった。日本で学制が交付されたのは1872年だったからだ。ちょうど山内家に養子に入った時期と重なる。その時に、すでに13歳だった私が、新制の小学校に通うことはなかった。話を聞いた時は、どのようなものなのかが気になったが、そんな時間の余裕もなく知らないまま過ごすことになった。何せすることが多いからだ。実父は商人ではなかったので、店の手伝いをさせられるということはなかった。職人だったので道具の手入れをしている姿は家でも見ていたが、私が触ってもいいものではなかった。だから時折こそっと覗いていただけだ。
翌日。義父に言われたとおりに朝の5時に起床した。すると家の人たちは、全員が朝からバタバタと動いていた。
(この人たちは一体何時から起きて働いているんだろう?)
そんなことを思ったが、それを聞く相手もいない。私は近くにいた人に声をかけると、掃除道具を渡された。これで掃除をしろということなのだろう。まずは家の外に出て、掃き掃除。これまでは誰が外を掃き掃除していたのかはわからないが、おそらく一日に何度かは掃除をしているような感じだった。それが終わると、バケツに水を入れて、手の届く範囲にはなるが雑巾かけをした。すると、そこに義父が姿を現す。
「ちゃんと言われたとおりにしているようだな」
「おはようございます。お父様。はい。掃除はこのような形でよろしいでしょうか?」
「裏口はまだ掃除をしていないだろう。そっちも掃き掃除と、拭き掃除をしておいてくれ」
「かしこまりました」
義父はそう言うと、家の中に戻っていった。やはり他の人同様、義父もこの時間には起きていたようだ。私は自分だけがやらされているわけではないと言い聞かせ、裏口の方へ向かった。
そんな生活が何年も続く。初めは店の掃除が主な仕事だったが、そのうちお使い、荷物運びなどの雑用を任されるようになった。それが普通にできるようになってくると、石灰の計量や袋詰めをさせたり、帳簿の付け方なども教えられたり……。計算をするのは難しかったが、慣れてくるとそれも楽しいと思うようになった。
ただその傍ら、実父の血の影響なのか、自分の手で何かを作ってみたいという欲求が生まれた。こうやって商家の勉強をするのも、修行をするのも嫌いではないのに、どうしても何かを自分の手で作りたいという気持ちを抑えられない。
私は夜寝る前の時間を使って創作活動も始めた。ただこれは今でいう、趣味の一環だ。いつか工芸士として世に出たいという気持ちはなかった。ただ何かを作りたいという欲求を満たせればよかったのだから。
そうして私が22歳になった1881年。私は義父に呼ばれ、私たち以外には誰もいない執務室で対面していた。
「房治郎。お前、いくつになった?」
「22歳でございます」
「山内家に来て9年ということだな」
「はい」
去年ぐらいから、義父は私に経営の話もするようになっていた。だが、経営について話をする時は、義父だけではなく、他にも経営に携わる者も同席していたので、2人だけで話すというのは、かなり珍しいことだ。
「お前はまだ若い。だが、お前は優秀だ。そこで、山内家の家督を房治郎に譲ろうと思っている」
「え!?」
いずれはその時が来るとは思っていた。私はそのために、山内家に養子になったからだ。しかし私はまだ22歳で若い。店主になるにはあと10年、20年は先かと思っていた。
「そんなに驚くことか?」
「いえ……いつかはそうなるかもしれないとは思っていましたが……」
「だったらそれが早まったと思えばいい。今月は引き継ぎ期間とするが、来月からはお前が経営の全責任を負う立場になると思え」
「はい! 心して取り組ませていただきます」
こうして私は山内家の家督を相続し、石灰問屋「灰岩」の店主になったのだった。
これまでも経営には多少携わっていたが、責任者となると話が違ってくる。この灰岩の売上を伸ばすことを考えなくてはいけないし、ここで働く人たちのことも考えなくてはいけない。そうなってくると、考える範囲が違う。
「今のままでも灰岩は、そこそこの売上がある。しかし、その売り上げも横ばい……いや、徐々に下降気味だ。これを上向きにさせたい。新しいものにも目を向けるか? それと同時に人脈も欲しいな」
考えに考えた私は、この時代の日本経済の中心にいた三井家の上層部との関係を持つことを一番にしようと思った。三井家に接近できれば、商売人として何かと有利に事を進めることができる。幸い私には時間がある。一度や二度否定されるようなことがあったとしても、何度だって立ち上がれる自信はあった。
そしてもう一つ。目をつけたものがある。
「セメントですか?」
私は経営に関わるものを一堂に集めて、これからのことをみんなに説明した。
「そうだ。これまでうちは石灰しか取り扱っていなかった。だが、世の中はどんどんと進んでいる。新しい建築資材が主流になることもあるだろう」
「だからといって、セメントが来るんですか?」
「まだ日本では主流ではないですし……」
「確かにこれは賭けの部分もある。だが、西洋で生まれたセメントが主流になる時代は必ず来るはずだ。主流になる前に、仕入れルートの確保をしておきたいんだ」
私の発言に懐疑的だった者もいたが、挑戦することは悪い事ではないということと、仕入れルートの確保をするだけなら今の灰岩の経営に影響を及ぼすことはないということで、私の意見が通った。
経営者という立場は私に合っていたのか、それとも山内家に養子になってから経営者としてのノウハウを叩きこまれたのが良かったのか、どちらなのかは分からないものの、楽しいものだった。経営者になるまでは一つのものしか見えていなかったが、経営者になると視野が広がり、様々な可能性を考えられるようになったからだ。
(灰岩はもっと業績を伸ばすことができる。だがそれは、石灰だけで伸ばせるものではない。セメントの仕入れと販売をすることが必須だ。この決意を表すためにも、社名を変えよう)
1885年。私が26歳の時に灰岩という名前を改め、「灰孝本店」という屋号に変えた。そしてこの頃にはすでにできていた三井家の上層部とのパイプを使い、日本初の本格セメントメーカーである「小野田セメント」の京都における独占的な販売権を獲得したのだ。小野田セメントは後に太平洋セメントという名前に変わるが、こことの繋がりは灰孝本店をさらなる高みへと導いてくれた。
この頃、国家プロジェクトであった琵琶湖疏水工事に参画していたのだが、この時にセメントを納入させた。その結果、私は実業家としての確固たる地位と莫大な原資を手に入れることとなる。
さらにその2年後の1887年に、私のプライベートでも大きな出来事があった。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
長女が生まれたのだ。私と妻のコマとの間に生まれた初めての子ども、貞。
「これが……私の娘か」
貞と初めて対面した時、心の中で何かがはじけたようなそんな感覚に陥った。家族に血のつながりは関係ないと思っていたが、血のつながりのある娘を見ると、幼少期の自分がやはり本当は寂しかったということに気づかされたからだ。
「コマ。本当にありがとう。こんな元気な娘を生んでくれて」
「何を言っているんですか。当然のことをしただけです。これから一緒に育てていきましょう」
「あぁ、そうだな。俺はこの子のためにできることは、何でもしたいと思っている。そして、娘に誇れる父親になるよ」
私はそう貞に誓いを立てた。
そんな私はもう一つの事業を本格化させることにした。ことの始まりは、1885年の法改正だ。この時、賭博カードの販売が公認された。その話を聞き、これはビジネスチャンスになるかもしれないと思ったのだ。実は私は、子どもの頃から物作りをやめていない。仕事としては行っていなかったが、趣味として工芸家のようなことをし続けていた。だが、そろそろ趣味としてだけではなく、仕事としてもしたくなっていたのだ。幸い、琵琶湖疏水工事のおかげで、灰孝本店はこれまでにないほど潤っている。であれば、自分の腕試しをするために新しい事業を始めてもいいのではないかと考えたというわけだ。
「貞。父様は貞に誇れる父親になりたいんだ。そのために、新しいことにも挑戦しようと思う」
「ととさま~うれしそう」
「嬉しそう。そうか、父様は嬉しそうか。はっはっはっ。お前は俺のことを誰よりもわかっているな。よし、会社をもう一つ立ち上げるぞ!」
こうして私は1889年に個人商店として「山内房治郎商店(屋号は任天堂骨牌)」を創業した。場所は灰孝本店と同じく京都下京区だ。そこで花札の製造販売をすることにした。
当時、花札は全て手作りで出来ていたため、誰が作ったのかで品質に偏りがあった。しかし私は昔から物作りをしていたということもあり、手先が器用だ。おかげで色むらや傷のない高品質な花札を作ることができた。それがプロの勝負師たちの間で評判になり、山内房治郎商店の花札はみるみる間に急成長をすることになった。
だが始めたばかりの頃は、山内房治郎商店はあくまで副業で、本業は変わらず灰孝本店の経営だ。全く客層の違う2つの会社だったが、どちらも私にとっては面白いと感じる仕事だった。
「花札の売れ行きは上々だな。だが、まだ客は京都に住んでいる人がメインだ。もっと全国的に広げたいのだが……」
私はそう思いながら、どうすればいいのかが分からず、久しぶりに賭博場を訪れた。
「さぁさぁ賭けた賭けた」
賭博場は相変わらず繁盛している。そこでふと気づいたことがあった。
(花札をしている人間も、賭博を見ている人間も、ほとんどがタバコを吸っている……もしかしてこれは……)
私はその当時、明治の煙草王と呼ばれていた村井兄弟商会の村井吉兵衛を訪ねた。
「本日はお時間を頂きありがとうございます。山内房治郎商店の山内といいます」
「噂は聞いていますよ。品質のいい花札を作っていらっしゃるとか。そんな方が、私に何か御用ですか?」
「村井さんは、全国のタバコ屋の販売ネットワークをお持ちですよね?」
「えぇ、それはもちろん。日本でタバコといえば、うちですからね」
「そのタバコ屋に花札を置いてもらえないでしょうか?」
「これは面白い提案ですね。まさかそんな話を持ちかけられるとは思いませんでした」
「たばこと花札は相性がいいと思うんです。どうかお願いします!」
こうして、花札は全国のタバコ屋に置いてもらうことになり、花札は京都だけではなく、全国で販売されることになった。
また、花札にも階級をつけることにした。最高級品の「大統領」から安価で手に取りやすい「天狗」と、品質によって値段を変えたのだ。これによって、様々な層が花札を手に取るようになった。
ただ需要が拡大したため、私一人で作るのには限界がきた。そこでアシスタントの職人を雇い、量産体制を確立。私が持っていた技術をアシスタントに伝え、学ばせたというわけだ。品質を確保しながらも量産ができ、全国の販売網もあるという会社は他にはない。私は市場の独占をした。
「だが、花札だけでいいのだろうか?」
私は愛する貞と仕事の合間に遊びながら悩んだ。自分の子どもと遊びたい親は五万といる。それは、賭博をする人よりも多い。そう考えた私は、1902年にトランプの製造も開始した。
そうして私が引退をする1929年には、日本一のカードゲーム会社へと成長していたのだった。
《参考資料》
会社の沿革-任天堂(公式)
花札から始まった任天堂(日経ビジネス)
任天堂の歴史(The社史)
山内房治郎(任天堂Wiki)
山内房治郎(任天堂・創業者)(思いでサイト)
\任天堂創業物語の一覧はこちら!/
▶任天堂創業物語【第1話・房治郎編】花札から始まった任天堂創業者・山内房治郎
▶任天堂創業物語【第2話・積良編】婿養子・山内積良が背負った任天堂の使命
この記事を書いた人
岩本和代
2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。



























