私は生まれた時から、自分も大人になったら医師になるものだと思っていた。何せ父親は村医だったし、兄たちも医師になろうとしていたのだから、他の道が自分に用意されているなんて考えたこともなかった。だが実際は……医師とは全く関係のない業界で社長になったのだから、人生とは本当に不思議なものだ。
すべての始まりは、あの出会いから決まっていたのだろう――
【主な登場人物】
主人公・御手洗毅(医師家系)
吉田五郎(小さなころから精密機械の解体が好きだった)
内田三郎(吉田の義弟で元證券マン)
前田武男(山一證券での内田の元部下)
「御手洗先生! 本当にありがとうございます! ありがとうございます!」
そう言って内田三郎は、私に頭を下げた。そう内田との縁は、彼の妻のお産を私が担当した頃にできたものだ。それからというもの内田はことあるごとに私に連絡をしてきて、子どものことで相談をしてきたり、仕事の愚痴を言ってきたりした。それに私も大学を卒業し日本赤十字病院という権威のある病院で産婦人科医として働いていたし、大分の実家は医師の旧家だったため、お金の運用方法について当時山一證券で働いていた内田に相談したこともある。とはいえ、普段はそこまで堅苦しい話はせず、飲み仲間と言えるような気楽な関係だった。そんな中、転機が訪れるのは1933年のことだ。
「御手洗先生。折り入って相談があるんだ」
「どうした急に。そんなに深刻な話なのか?」
「深刻……そうだな。御手洗先生が想像している深刻とは方向性は違うと思うが、大事な話ではある」
「なんだそれは。わかったわかった。内田の誘いを断るわけにはいかないからな」
そうして私はとある夜に、内田が指定したビヤホールに向かった。そこには、内田だけではなく、見知らぬ男もいた。
「御手洗先生! 今日は来て下さってありがとうございます」
普段の砕けた口調ではなく丁寧は言葉遣いに、私は気を引き締めた。これは商談に近い内容の話になると直感したからだ。
「こちらは、私の義兄で吉田五郎といいます」
「吉田です。御手洗先生の話は三郎君から聞いていました。何でも妹のお産を担当してくださったとか」
「御手洗です。いえいえ、産婦人科医として当然のことをしたまでです」
「それでも今も妹が元気でいられるのは、御手洗先生のおかげです」
私と吉田さんは、お互いにお辞儀をする。それを見てから、内田は明るい声で店員に生ビールを3杯注文した。
「それで、今日の話というのは?」
「その前に、もう少し義兄の話をさせて下さい。義兄は映写機技師をしているんですが、以前仕事で上海に行った時にアメリカ商人からからかわれたそうなんです」
内田はそう言って、吉田さんを見る。
「日本は軍艦は作れるのに、なぜこんな小さなライカのようなカメラは作れないんだ? と言われましてね」
「それは……」
当時、高級カメラといえばライカ一択だった。本格的な日本製品のカメラがなく、アメリカ人からそう言われても仕方ない時代でもある。
「そこで日本に帰ってきてから、実際にライカを分解してみたんですよ」
「え、ライカを分解!?」
「そうなんですよ。義兄は幼少の頃から、色々なものを分解しては組み立て直してたんで、こういうのは得意なんですよね」
「いや、そこでなんで内田が偉そうに話すんだ」
「あ、つい」
私と内田のやり取りを見て、吉田さんは少し緊張感をほぐしてくれた。やっと少し私のことを信用してくれたのかもしれない。
「御手洗先生は、高級カメラの中はダイヤモンドなどの高級な部品が使われていると思っていませんか?」
「違うんですか?」
「分解して分かりましたが、真鍮やアルミ、ゴムなど安価な素材で出来ているんですよ」
「へぇ、そうなんですね」
「それで思ったんです。これなら私たちにも作ることができるんじゃないかって」
「!!」
今日の話の趣旨がようやくわかった私は内田を見た。内田はさっきとは打って変わって真剣な表情をしている。
「私の夢は、ドイツ製ライカに負けないカメラを作ることなんです!」
そう言われ、私は病院の顕微鏡がドイツ製ばかりであることを思い出した。精密機器は日本人でも作れるはずなのに、どうして日本製がないんだと思ったことは一度や二度ではない。目の前にいる男は、世界の常識を覆すことを宣言している。こんなにすごい夢を終える人物とは、これから先で会うことはないだろう。
「素晴らしい夢ですね」
「それで僕たちは精機光学研究所を作ろうと思っているんです。義兄が開発者として、僕は資金援助と経理担当として」
「……そういうことか。俺にも資金援助をしてほしいということだな?」
「あぁ、お願いしたい」
「御手洗先生。どうか一緒に打倒ライカを目指しましょう」
希望に満ちた目をしている義兄弟を見て、首を横に触れる人間がいるだろうか。それまでの私は、決められた道を淡々と進むだけの人生だった。もちろん、人の命を救うということに対して使命感はあったが、打倒ライカだという二人のような熱はなかった。二人の話を聞いて、この命を賭してみたい、そう思ったのだ。
その年の11月。精機光学研究所が六本木にあるビルの3階に作られた。そして翌年、吉田さんはなんと試作機として「KWANON(カンノン)」をこの世に生み出した。
「できた! これが国産高級カメラ『KWANON(カンノン)』だ!」
「すごい、本当にできるなんて……!」
「35mmフォーカルプレーンシャッターカメラが、まさかこんな短期間で出来るとは思っていませんでした」
「それは三郎君や御手洗先生が出資してくれたおかげで、研究開発ができたからだ。ありがとう。だけど、まだまだここからだ。俺はもっといいものを作りたい。もっともっと開発して、ライカに勝つんだからな!」
と言っていた吉田さんだったが、その年のうちに彼は研究所を去ることになる。理由は研究費の横領疑惑があったからだ。だが後から考えれば、技術屋で真面目な彼がそんなことをするわけがないのは分かるはずなのに、周りの声に耳を傾けたせいで信じ込んでしまった。後に、吉田さんは他の研究員にはめられただけだと分かったのだが、その時にはすでに吉田さんとの間に大きな溝ができてしまっており、和解することは出来なかった。
「義兄のことを信じられず、どうして俺はあんなことを言ってしまったんだろう」
吉田さんがいなくなったことで落ち込んでいた内田を誘い、久しぶりにバーで二人で飲んでいた。
「仕方ないさ。吉田さんは完璧主義者で、他の研究員との関係がこじれていたというのも問題なのだから」
「しかし、義兄は嫁の兄でもあるのに。義兄が無実だと分かってから、嫁も冷たくなったよ」
「そうか。だが過ぎたことを悔やんでも仕方がない。俺たちは今できることをしていかなければいけないんだ。吉田さんがいなくなったのは痛手だが、精機光学研究所はまだこれからも続いていくし、世間に公表したKWANONの反響もある。今はKWANONをいかに製品として売り出せるようになるかを考えなければいけない」
「……そうだな。ライカを超えるという夢はもう、義兄だけのものじゃないんだった。精機光学研究所にいる全員の夢だものな」
それから内田と話し合いをし、研究所員も交えて、KWANONの課題点を割り出していった。その結果、光学技術……高品質なレンズや距離計を作るノウハウがないことが分かる。
「光学技術のノウハウなんてどうするつもりだ?」
「日本工学工業に協力をお願いしようと思う」
「おいおい、そんなの通るのか? 向こうだってカメラを作りたいだろう」
「いや、あそこはまだ軍需企業で、一般人向けのカメラは作っていない。だから可能性はあると思う。それに俺の兄が日本工学の監督官なんだよ」
「……それを早く言え! だったら何とかなるかもしれないな」
内田はその後、兄のツテで取締役顧問と直接話ができ、本当に日本工学工業に協力をしてもらうことになった。
次の問題点は、シャッターの壁だ。フォーカルプレーンシャッターは極めて薄い幕を高速で、しかも正確に動かす必要がある。しかし、途中で幕が止まったり、光が漏れたりしてしまう。だがここは他社に頼るのではなく、研究所で何度も試行錯誤を重ねて作り上げていったそうだ。
この頃の私は、研究には携わっていない。そもそも産婦人科医が本業なのだから。ただ、慢性的な資金不足に陥っていたので、私は何度も資金援助をしながら、現在の状況を聞いていただけだった。
また私たちは確実に前進しているという自負があったため、製品としては完成していない1935年には「CANON」の商標を取った。それは内田の熱い要望からだ。
「御手洗先生。商標を取ろうと思うんだ」
「商標? なんでまた」
「研究所で出来上がるカメラは、絶対にすごいものになる。だからその名前を先に登録しておきたいんだよ。KWANONでも良かったが、世界展開を考えると、聖典、規範といった意味合いもあり、カンノンという言葉の響きも近い『CANON』にしようと思うんだ。どう思う?」
「それを聞いて、俺が反対すると思うか?」
「思わない。よし、決まりだな!」
という会話で本当に決まった。
そして、その翌年、ついに売り出せるレベルの製品が出来上がった。それが、製品第1号「ハンザキヤノン」だ。世間の評判は、ライカ模倣品とも言われたものの、日本製のカメラは玩具レベルのものしかない時代に、このレベルのカメラが売り出されたことに関心は高かった。さらに、日本工学工業のニッコールのレンズを搭載していたことも評判を後押ししていたと言える。とはいえ、当時のサラリーマンの月給が40~50円という時代に、275円で販売したため、購入できたのはごく一部の裕福層だけだった。
それでも、ようやく完成できたことを研究所に関わるすべての人間が喜んだことには嘘はない。そしてさらにその翌年の1937年についに研究所は株式会社化をし、精機光学工業株式会社になり、内田は専務取締役に、私は監査役として取締役に就任したのだ。
ただこの頃はまだ国際聖母病院で産婦人科医としても忙しく働いていたので、取締役になったと言っても1日中会社にいるわけではなかった。それでも重要な会議には参加していたし、経営判断を行う場合には私の意見も取り入れてくれていた。だがこの頃の私は、外から会社を見ているという感覚が強かったように思う。大事な居場所ではあったが、産婦人科医を辞めて取締役だけで生きていこうとは思っていなかったのだから。私の本業は、あくまで産婦人科医だった。だから私はあの決断をしたのだ。
1940年。私は悲願だった御手洗産婦人科病院を東京の築地で開業した。私がこれまで日本赤十字病院や国際聖母病院で経験を積んできたのもこのためだ。何度も言うが、私は医師家系に生まれている。ただ五男だったため、大分の病院は兄が継いでいるので、私が病院を持つには、自分で作るしかない。だが何の経験もない奴がいきなり開業をしても意味がないので、経験を積むために働いてきたというわけだ。まさか、開業する前に、他の企業で監査役とはいえ取締役になるとは思っていなかったが。
「今日からここが、私の病院か」
三階建てのモダンな建物は、私のこだわりが詰め込まれている。KWANONやハンザキヤノンが初めて出来た時も身震いをしたが、自分の病院を見上げるのとはやはり感覚が違う。私は根っからの医師なのだから。
「これからはもっと忙しくなるぞ……!」
自分を奮起させて、私は病院の中に入っていった。
私が開業医になってからは、以前よりも病院の方に時間を割くようになった。このまま何事もなく進んでいけばいいと思っていたが、全てを狂わせたのは太平洋戦争だ。1941年12月に戦争が始まり、翌年1942年には何と内田が戦地に行かなくてはならなくなったのだ。
「御手洗先生……いや、御手洗! どうか頼む。一生のお願いだ。精機光学工業の社長になってくれ!!」
「いやだから、無理だって。精機光学工業には思い入れがある。だが俺は今まで監査役として外から見ていただけに過ぎない。それに開業医でもあるんだぞ? どうやって経営をしろというんだ」
「それでも精機光学工業の経営ができるのはお前しかいないんだよ! うちで働いている奴らは研究員がほとんどだから、実務しかできない奴らなんだ。開業医なら、経営もしているだろ」
「いや、まぁ、それはそうだけど……」
「お願いだ、この通り!!」
そう言って内田は土下座をした。
「お、おい! やめろ! そんなことをするな!」
「お前が社長になってくれるなら、俺はなんだってする!」
「わかった、わかったよ。社長をやるよ。だから土下座なんてやめてくれ」
「御手洗~!! ありがとう、ありがとう!!」
内田は立ち上がり、私に抱きついた。
こうして私は産婦人科開業医という肩書だけではなく、精機光学工業の初代代表取締役社長という肩書までつくことになったのだ。人生というのは何が起こるか分からないものだ。しかし私を驚かせる苦難というのは、この先もまだまだ続く。それが人生というものなのかもしれないが。
⇒後編に続く
【参考資料】
キヤノン株式会社 公式サイト「キヤノンの歩み」
キヤノンカメラミュージアム「キヤノン物語」
ドリームゲート「偉人たちはどう動いたのか?(キヤノン編)」
事務機器ねっと「事務機器コラム:キヤノンの創業者たち」
企業家ミュージアム「御手洗毅 ─ 医師から転身、キヤノンを世界企業へ」
この記事を書いた人
岩本和代
2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。



















