倒産まで30日
1996年春。
カリフォルニア州サンタクララの小さなオフィスで、33歳の男が受話器を握っていた。
電話の相手は、太平洋の向こうにいるセガの社長、入交昭一郎。
ジェンスン・フアンは入交に告げなければならなかった。
約束した技術は動かない。
契約を続けても金の無駄だ。
他を当たってくれ、と。
入交は東京大学で航空工学を学び、ホンダでF1エンジンを設計した男である。
26歳でV型12気筒の設計責任者に抜擢され、その後アメリカに渡り、セガの社長に就いた。
技術の良し悪しは自分の目で判断できる。
そしてフアンの告白が、嘘をつけない人間の言葉であることも。
最初の製品は市場に拒絶され、次の製品は完成する前に打ち切った。
NVIDIAの銀行口座には、全社員30日分の給与しか残っていない。
この金が尽きれば、3年前にデニーズで描いた夢ごと会社は消える。
入交は数日間考えた。
そして契約を解除した上で、残りの500万ドルをNVIDIAに出資すると答えた。
なぜ、ほぼ確実に消える会社に500万ドルを渡したのか。フアンは後年、入交の判断をこう説明している。
“So what he decided was, Jensen was a young man he liked, that’s it.”
(好きな若者だった、それだけだ)
この500万ドルがなければ、NVIDIAは翌月に消滅していた。
そしてAIの時代は、まったく違う形で訪れていたかもしれない。
目次
第1章 デニーズで生まれた会社
ジェンスン・フアンは1963年、台湾南部の台南で生まれた。
9歳のとき、より良い教育を受けさせたいと願う両親の手で、兄と共にアメリカの叔父夫婦のもとへ送り出される。
叔父夫婦が普通の寄宿学校だと思い込んで選んだケンタッキー州のOneida Baptist Instituteは、実際には問題を抱えた少年たちを更生させるための学校だった。
毎日トイレ掃除をさせられ、同級生からはナイフで脅され、民族差別的な言葉を投げつけられた。
9歳のフアンが取った行動は、17歳のルームメイトにタバコを買って差し出すことだった。
殴られないために、まず相手の仲間になる。
どんな場所でも生き延びる術を、この少年はここで身につけたのかもしれない。
それから数年後にオレゴン州に移り、15歳になる頃にはポートランドのデニーズで皿を洗っていた。
初めてのハンバーガーとミルクシェイクも、この店のカウンターで食べた。
オレゴン州立大学の電気工学科に進むと、250人のクラスに女子は3人しかいなかった。
フアンはそのうちの一人、2歳年上のロリ・ミルズに声をかけた。
「僕の宿題見たい? 毎週日曜に一緒にやれば、絶対Aが取れるよ」
こうして日曜ごとの宿題デートが始まり、1988年に2人は結婚する。
フアンはロリにこの時こう告げている。
「30歳までにCEOになる」
つい最近までデニーズで皿を洗っていた少年の言葉だ。
そして1988年、2人は結婚することになるのだが、それはもう少し先の話だ。
スタンフォード大学で修士号を取ったフアンは、AMDを経てLSI Logicに入社。
取引先のSun Microsystemsを担当する中で、2人のエンジニアに出会う。
カーティス・プリエムとクリス・マラコウスキーだ。
カーティス・プリエムは、IBMでPC初のグラフィックスプロセッサを設計し、Sunに移ってからもグラフィックスチップの開発を率いていた。
偏屈で、自分の設計への執着は異常なほど強い。
クリス・マラコウスキーは同じくSun出身で、プリエムとは対照的に穏やかな男だった。
1993年、30歳になったフアンはプリエム、マラコウスキーとともに会社を興し、年上の2人はCEOをこの最年少の男に委ねた。後年、プリエムはこう認めている。
“We basically deferred to Jensen on day one.”
(初日からジェンスンに委ねた)
3人が会社の青写真を広げたのは、サンノゼ東部のBerryessa Road沿いにあるデニーズだった。
コーヒーは飲み放題で、誰も追い出さない。
15歳から皿を洗っていたフアンには、デニーズがどういう店か身体でわかっている。
3人はLumberjack SlamとSuper Birdサンドイッチを注文し、コーヒーが10杯空くまで話し込んだ。
翌週も、そのまた翌週も。
深夜まで居座る常連を見かねた店員が、奥の部屋を使えと言ってくれた。
本来そこは警察官が報告書を書くための部屋だ。
しかしそこで窓に弾痕が残っているのを見つけて、3人はプリエムのエアコンもないタウンハウスに場所を移し、話し込む時間は日に日に増していく。
そしてそのままタウンハウスは、NVIDIAの最初のオフィスになる。
PCでリアルな3Dグラフィックスを実現する半導体チップを作る。
それが彼らの計画だった。
だが半導体チップの開発には莫大な金がかかる。
手元にあるのは4万ドルだけ。
フアンはLSI Logic時代の上司ウィルフレッド・コリガンのもとを訪ねた。
コリガンはLSI LogicのCEOで、半導体業界に太い人脈を持つ男だ。
もうこの男に投資家を紹介してもらうしかない。
ところがフアンは技術の話になると止まらない。
チップがいかに革新的か、専門用語を矢継ぎ早に並べ立てた。
コリガンは聞き終えると一言。
「お前が何を言ったか全くわからない。今まで聞いた最悪のピッチだ」。
だがコリガンはフアンをLSI Logicの社員として何年も見てきた男だ。
話は下手でも、何を作れるかは知っている。
だからこそ最悪なピッチだったがシリコンバレーで最も名の知れたベンチャーキャピタル、Sequoia Capitalの創業者ドン・バレンタインに電話を一本入れてくれた。
「今から一人送る。うちにいた一番の男だ。何をやるかはわからんが、金をやってくれ」
バレンタインの前でもフアンは相変わらずの調子だ。
90分にわたる質疑が続いたが、その場にいたSequoiaのメンバーの誰一人ファンの言ってることを理解できない。
Sequoiaのメンバーの一人は後にこう言っている。
「正直、なぜこの会社に投資すべきかわからなかった」
質疑が続く中空気が変わったのは、半導体の専門家ピエール・ラモンドが聞いた一言だった。
「チップのサイズは?」
ファンは「12ミリ」と答える。
半導体はサイズが大きすぎれば製造コストが跳ね上がり、小さすぎれば性能が出ない。
たった一つの数字で、その製品が成り立つかどうかがわかるのだ。
ラモンドはバレンタインを見る。
バレンタインは頷く。
こうしてSequoia Capitalとサターヒル・ベンチャーズから合わせて200万ドルを勝ち取ったのだ。
だがバレンタインはフアンに釘を刺す。
“But if you lose my money, I will kill you.”
(だが俺の金を失ったら、殺すぞ)
こうしてNVIDIAは最初の一歩を踏み出すことができたのだった。
第2章 25万個作って、24万9,000個が返品された
NVIDIAが最初に世に出したチップには、CTOプリエムの執念が詰まっていた。
1995年5月発売のNV1。
当時の3Dグラフィックスは、小さな三角形を何枚も貼り合わせて物体の形を作っていた。
レゴブロックで球を作るようなものだ。
遠くからは丸く見えても、近づけばカクカクした角が見える。
プリエムにはそれがどうしても許せなかった。
三角形をいくら細かくしたところで、曲面にはならないというのが彼の持論だ。
ならば最初から数式で曲面そのものを描けばいい。
そして「二次曲面」と呼ばれるその技術に、プリエムは全てを賭けてNV1を組み上げた。
デモで球体が画面に現れたとき、見ていた者の手は止まった。
あのカクカクした角が、どこにもなかったのだ。
ところが同じ1995年、Microsoftがゲーム開発者向けの共通規格DirectXを発表する。
この規格に対応しなければどんなゲームもチップの上で動かせなくなるが、DirectXがサポートするのは三角形だけだ。
プリエムが心血を注いだ二次曲面は、一夜にして業界の未来から締め出されたのだった。
NVIDIAはソフトウェアで無理やりDirectXに合わせようとするが、遅い上にバグだらけで話にならない。
NV1は販売パートナーDiamond Multimediaを通じて25万個が店頭に並んだ。
だが棚の前で足を止める客はいない。
返品された数、24万9,000個。
出荷の99.6%が箱のまま戻ってきたのだった。
後年、フアンはNV1について、こう振り返っている。
“It was a great technology achievement. It was a terrible product.”
(技術としては最高傑作。売り物としては最悪だった)
技術は正しくても、市場が求めていなければ売れない。フアンはそう悟った。
だがプリエムは折れない。
二次曲面はまだ正しい、三角形に走る業界のほうが狂っている——次に開発するセガのゲーム機向けチップにも同じ方式を押し通し、フアンが何度求めても首を縦に振らなかった。
密室で始まった議論は決着がつかないまま全社員の目の前に晒され、やがて穏やかなマラコウスキーが割って入っても収まらなくなっていく。
デイヴィッド・カークがNVIDIAのドアを開けたのは、この渦中の時だ。
外部から招かれたグラフィックスの専門家が最初に聞いたのは、技術の議論ではなく創業者たちの怒鳴り声だった。
社員は誰も顔を上げない。
来る場所を間違えた——それがカークの第一印象である。
フアンはNV2の開発を打ち切り、セガの入交に電話をかけた。
入交が出資した500万ドルを手に、フアンがまずやったのは100人の社員を約40人にまで削ることだった。
月の支出が半分以下に落ち、500万ドルは約6ヶ月の猶予に変わる。
残った者たちの前に立つ。
“There may be people smarter than me, but no one is ever going to work harder than me.”
(俺より頭のいい人間はいるだろう。でも俺より働く人間はいない)
カークを技術の要に据え、プリエムの二次曲面を根こそぎ捨てた。
デニーズで一緒に未来を描いた共同創業者の肩書はCTOのまま残る。
だが技術の舵は、もうフアンの手にある。
そしてNVIDIAのチップに曲線が使われることは、二度となかった。
第3章 おまえらまだいたの?
フアンが最後の金で買ったのは、チップを物理的に作る前に設計の正しさを試せる機械たった1台だった。
三角形とDirectXに完全対応した新チップを、この機械の上で設計し、一度もプロトタイプを作らず直接量産に回す——間違いが見つかっても、やり直す金はもうない。
コードネームNV3、後のRIVA 128である。
空いたデスクが並ぶオフィスの奥で、検証機だけが昼も夜も唸りを上げている。
カークが夜を、初期入社のエンジニアであるドワイト・ディアクスが昼を受け持ち、9ヶ月間、この機械が止まることはなかった。
1997年4月、RIVA 128がゲーム開発者会議CGDCで初めて披露される。
グラフィックスカード市場を支配していた3dfxの創業者が、NVIDIAのブースの前を通りかかった。
“You guys are still around?”
(おまえらまだいたの?)
なぜこんなことを言えたのか。
3dfxはかつてNVIDIAの買収を検討したが、どうせ数ヶ月で潰れると見送っていたからだ。
しかしその予想は外れることになる。
1997年8月RIVA 128が世に出ると瞬く間にその売り上げを伸ばしていき、4ヶ月で100万台以上売れたのだった。
売上は前年の1,330万ドルから1億5,820万ドルへ。
グラフィックスカード市場でシェア24%を奪い、業界2位に食い込み会社は初めて黒字を見ることになった。
このときNVIDIAの銀行残高は全社員の給料1か月分。
ギリギリの皮一枚で首がつながったのだった。
この勢いは止まることなく1999年1月には、NASDAQに上場を果たす。
公開価格12ドル。
そして同年8月に発表したGeForce 256に、フアンはある名前を刻んだ。
GPU——Graphics Processing Unit。
ゲームの映像を描く専用プロセッサという概念そのものに、NVIDIAが名前をつけたのだ。
この3文字が、やがてまったく別の意味を帯びていくことになる。
そして2000年、NVIDIAはあの3dfxを1億1,200万ドルで買収。
「おまえらまだいたの?」と言った会社を、まるごと呑み込んだのであった。
フアンは後年、RIVA 128を「会社のリセットだった」と振り返っている。
だがリセットされたのは製品だけではない。
フアンはこの時期から全体会議で同じ言葉を繰り返し始めた。
「我々は倒産まであと30日だ」
RIVA 128が出荷された1997年8月、銀行残高が本当に1ヶ月分しかなかった——あの恐怖を、社員の誰にも忘れさせないためにだ。
第4章 誰も使い道を知らなかった技術
GPUの王者になったNVIDIAに、一人の大学院生が問いを投げた。
スタンフォード大学のイアン・バック。
2000年頃から彼はある問いを手放せずにいた。
GPUはゲームの映像を描くために作られた機械だ。だが何千もの計算を同時にこなせるこの構造は、ゲーム以外にも使えるはずではないか。
“Could graphics hardware do more than render pixels?”
(ゲームの画を描くだけの機械に、もっと別の仕事をさせられないか)
バックはこの問いに自分で答えようと、スタンフォードでGPUに別の計算をさせるプログラム言語を開発していた。
2004年、この研究に目をつけたNVIDIAはバックを迎え入れ、並列計算のベテランであるジョン・ニコルズと組ませる。
バックが大学で積み上げた技術を土台に、2人はGPUにゲーム以外の仕事をさせる仕組みを一から作り始めた。
2006年11月、それはCUDAという名前で世に出る。
フアンの方針は明確で、容赦がない。
最も安い50ドルのゲーミングGPUにもCUDAを載せる。
3,000ドルのワークステーション用だけではない。
NVIDIAが作るすべてのチップにだ。
これに社内が猛反発する。
CUDA開発チームの一人が、当時を振り返っている。
“I personally had lunchtime arguments with senior graphics architects at NVIDIA who didn’t want to spend 10% die area on compute because it would put them at a disadvantage running graphics benchmarks against AMD.”
(社内のベテラン設計者たちと、昼飯を食いながら何度も言い合いになった。チップの回路の1割を計算用に割けば、AMDとの性能勝負で負ける——それが彼らの言い分だった)
数年前、NVIDIAはGeForce FXというチップで競合AMDに惨敗している。
回路に機能を詰め込みすぎたのが原因で、同じ轍を踏む恐怖が社内に染みついていたのだ。
しかしそれでもフアンは退かなかった。
100円売って35円しか手元に残らない会社が、コストを50%上乗せする判断を下したのだ。後年、フアン自身がその無謀さを語っている。
“We increased our cost by 50% and we were a 35% gross margin company.”
(コストを50%上乗せした。粗利が35%しかない会社なのに)
ゲーマーは誰もCUDAの意味を理解しなかったし、その分の金を払う者もいない。
ウォール街はCUDAを「会社を終わらせる失敗」と断じ、NVIDIAの時価総額は2007年のピーク約80億ドルから15億ドルにまで沈む。
更に2008年の金融危機が追い打ちをかけ、株価はさらに80%崩れた。
それでもフアンは投資をやめなかった。
6年間、毎年5億ドル。
これを買い手のいない技術に注ぎ続けたのである。
2012年、トロントの寝室からこの投資の答えが届く。
カナダ・トロント大学の大学院生アレックス・クリジェフスキーは、両親の家の寝室でAIの訓練をしていた。
使っていたのはNVIDIAのゲーミングGPU「GTX 580」が2枚と、自分で書いた6,000行のCUDAコード。
1枚500ドルのゲーム用グラフィックスカード。
合計たった1,000ドルの機材が、普通のコンピュータなら数週間かかる計算をたった5日で終わらせたのだ。
世界中のAI研究者が画像認識の精度を競うコンペティション「ImageNet」で、クリジェフスキーは2位を10.8ポイント引き離して圧勝する。
この年、ニューラルネットワークという手法で挑んだのはクリジェフスキーのチームだけだった。
翌年、ほぼ全チームがニューラルネットワークに乗り換える。
寝室のGPUが世界大会を制したのを知ったフアンは、一言で断じている——
“It was clear there was a discontinuity here.”
(ここで何かが根本から変わった)
後に彼はこの瞬間を「AIのビッグバン」と呼ぶことになる。
1,000ドルのゲーム用GPUが、AIの時代をこじ開けた瞬間だった。
6年間、買い手のつかなかったCUDAもようやく報われたのである。
だがこの瞬間を見届けられなかった者がいる。
バックとともにCUDAを一から作り上げた相棒——ジョン・ニコルズは、その1年前の2011年8月、61歳でがんにより世を去っていた。
ImageNetの衝撃を知ることなく。
第5章 ゲーマーの怒り、暗号通貨の二日酔い
ニコルズが遺したCUDAは、2012年のImageNet以降、世界中の研究室に広がっていった。
だがGPUの計算力に気づいたのは研究者だけではない。
暗号通貨のマイナーたちもだ。
ビットコインは膨大な数学パズルを解いた者に報酬が支払われる仕組みで動いており、その計算にはGPUの並列処理が最も適していたのだ。
2017年にビットコインの価格が急騰すると、マイナーがグラフィックスカードを片端から抱え込んでいく。
NVIDIAの決算書は潤う。
だが売上のうちどれほどがマイニング用なのか、NVIDIA自身にさえわからなかった。
そしてわからないまま、バブルが弾ける。
2018年後半、暗号通貨の価格が崩壊するとマイナーは用済みのカードを中古市場に叩き出し、倉庫には誰も引き取らないチップが積み上がっていた。
NVIDIAは13.4億ドルの在庫を損失として計上した。
さらに米証券取引委員会(SEC)から、マイニングの売上をゲーム用と区別せずに開示していたことを咎められ、550万ドルの罰金を科される。
売上の中身がわからなかったツケが、まとめて回ってきたのだ。
2021年、暗号通貨の熱狂が戻ってくると、この年だけでマイナーの購入額は30億ドルを超え、定価1,500ドルのカードがeBayで2倍以上の値段で転売されはじめた。
アメリカ最大の家電量販店Best BuyにNVIDIAのグラフィックスカードが入荷すると、何日も前から75人が列を作った。
パソコンの部品ひとつに、である。
だがその75人のうち、ゲームのために並んでいたのはたった2人。
残りは全員マイナーか転売ヤーだった。
何日も待った末に割り込まれた客がつかみかかり、警備員が飛んでくる。
何ヶ月も品切れの棚を眺め、ネットでは定価の2倍を払わなければ手に入らない。
ゲームをしたいだけなのにカードが買えない——その怒りが、ゲーマーたちを思わぬ方向に走らせた。
eBayでグラフィックスカードの「写真だけ」を出品し始めたのである。
転売ボットは商品説明を読まないから、カードの画像1枚に数百ドルを支払ってしまう。
NVIDIAはマイニング性能を制限する機能で対抗したが、ハッカーにすぐ突破された。
自分が作ったGPUの行き先を、NVIDIAはもう決められない。
そしてNVIDIAにできることが何もないまま、2022年、暗号通貨が再び凍りつく。
PC販売の減速が重なり、ゲーミング売上は前年比51%減に沈んだ。
あのRIVA 128で掴んだゲーミング市場が、また手からこぼれ落ちようとしていた。
第6章 デニーズから4兆ドルへ
2016年、フアンは32キロの箱を自ら担いで、サンフランシスコにあるOpenAIのオフィスに現れた。
世界初AI専用スーパーコンピュータ「DGX-1」である。
そしてフアンは箱にペンで直接こう書いた。
“To the future of computing and humanity.”
(コンピューティングと人類の未来のために)
その6年後の2022年11月。
OpenAIがChatGPTを公開した。
公開5日で100万人が使い始めた対話型AIの頭脳を動かしていたのは、NVIDIAのGPU——フアンが署名を入れて届けたあのチップの子孫である。
世界中の企業がAIを求め、AIはNVIDIAのGPUを求めた。
データセンター部門の売上は2024年度に475億ドルに達し、会社全体では609億ドル。
チップの納品待ちは数ヶ月に及び、「チップの納品が、人々にとって感情的なことになっている」とフアンは語る。
欲しい者全員には届けられないのだ。
パロアルトの高級寿司店Nobuで、オラクル共同創業者ラリー・エリソンとテスラCEOイーロン・マスクがフアンと夕食の席についていた。
エリソンは後の決算説明会で、この夜の実態を打ち明けている。
「あの夕食を一言で表すなら、俺とイーロンがジェンスンにGPUを懇願していたということだ。『お願いだから金を受け取ってくれ。もっと受け取ってくれ』。ちなみにディナーは俺のおごりだ」
高級寿司店のカウンターで、15歳のときデニーズで皿を洗っていた男に、世界で最も力のある2人が頭を下げたのだった。
2023年5月、NVIDIAの時価総額が1兆ドルを突破。
あのBerryessa Roadのデニーズには記念のプレートが据えられた。
「The NVIDIA Booth ―― 1兆ドル企業を生んだブース」。
社員の暮らしも一変していた。
NVIDIA社員の78%がすでにミリオネアだという調査結果が出ている。
ある中間管理職は18年間、従業員持株会に給与の限度額まで積み立て続け、一度も売らずにいたら退職時の口座残高は6,200万ドル——約90億円になっていたという。
エンジニアではない。中間管理職がである。
だがその富は鎖でもあった。
4年かけて受け取る株式報酬が「黄金の手錠」となり、辞めれば将来の莫大な報酬を失う。
億万長者でありながら週7日、深夜2時まで働く社員を、フアンは「ボランタリー・スポーツだ」と呼んだ。
2024年6月にフアンが台湾に戻ると、夜市でフルーツを買うだけでニュースになるほどになっていた。
プロ野球の始球式では背番号93——NVIDIAの創業年をつけ、テレビは「Jensanity」と呼ぶ。
あのデニーズのテーブルから、30年が経っていた。
第7章 倒産まで30日の、4兆ドル企業
NVIDIAのすべてのチップを作っているのは、NVIDIAではない。
台湾のTSMCである。
台湾海峡で何かが起きれば、4兆ドル企業のすべてが止まる。
米国政府は2022年以降、NVIDIAの最先端AIチップの中国への輸出を段階的に封じた。
NVIDIAは規制の性能上限ギリギリのチップを作って回避を試みたが、それも塞がれる。
フアンの言葉で言えば「シェア95%から0%になった」。
55億ドルの損失。
中国という巨大市場が、政治の一筆で消えたのだ。
Google、Amazon、MicrosoftはNVIDIAに頼らない自前のAIチップ開発を急いでいる。
暗号通貨で2度経験した通り、需要は一瞬で消えることがある。
フアンは今も全体会議で同じ言葉を繰り返す。
“You know the phrase ‘only 30 days away from bankruptcy,’ I’ve been using it for 33 years.”
(「倒産まであと30日」——この言葉を33年間使い続けている)
33年前にデニーズのテーブルを囲んだ3人は、いまそれぞれの場所にいる。
CTOのプリエムは2003年にNVIDIAを去り、保有していた株のほぼすべてを手放した。
持ち続けていれば2026年時点で約5,970億ドル——世界で2番目の富豪に相当する額である。
実際の純資産は3,000万ドル。
ニューヨーク州でソーラーパワーのオフグリッド牧場を営み、母校の工科大学に3億ドル近くを寄付している。
本人の言葉は短い——「ちょっと狂ったことをした。もう少し持っておけばよかった」。
マラコウスキーは33年間、一度もNVIDIAを離れていない。
現在の肩書は「NVIDIA Fellow」
2026年にはIEEEのRobert N. Noyce Medal——半導体業界で最も権威ある賞の一つを受けた。
穏やかな男の言葉は、やはり穏やかだった。
「一夜の成功のように見えるかもしれないが、実際には30年かけて作ってきたものだ」
そしてフアンは、レザージャケットを着て今もステージに立ち続けている。
株価が100ドルに達した日、左肩にNVIDIAのロゴのタトゥーを彫った。
「赤ん坊のように泣いた。もう二度とやらない」
だが株価はその何十倍にもなった。
2017年、20年間音信不通だった入交昭一郎からメールが届く。
フアンの返信は短かった。
“Working with Sega in the beginning of Nvidia is one of the happy memories of my life.”
(NVIDIAの始まりの頃にセガと一緒に仕事をしたことは、私の人生で最も幸せな記憶のひとつです)
セガは2000年にNVIDIA株を1,500万ドルで売却していた。
持ち続けていれば、約1兆ドルになっていた。
おわりに
NVIDIAの物語は「天才がすべてを見通していた」話ではない。最初の製品を99.6%返品され、共同創業者と怒鳴り合い、買い手のいない技術に6年間で30億ドルを注ぎ込み、時価総額を5分の1にまで沈めた。それでもやめなかった男の話だ。
「もう一度NVIDIAをやるか?」と聞かれたフアンは即答している。「やらない。あの痛みと苦しみ、恥、失敗の数々を知っていたら、正気の人間はやらない」。
弾痕の残るデニーズの窓の向こうで3人が描いた未来は、1人が去り、1人が黙って残り、1人が世界で最も価値のある会社にした。
筆者あとがき
取材を通じて最も印象に残ったのは、入交昭一郎の判断だ。技術は動かない、金は返せない、他を当たってくれ——そう正直に言われて500万ドルを出す人間がこの世にいる。「好きな若者だった、それだけだ」。この一言にビジネスの本質がある気がしてならない。
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《参考資料》
Acquired Podcast(Jensen Huang回、NVIDIA Part I・II)/ Lex Fridman Podcast #494 / Joe Rogan Podcast #2422 / Sequoia Capital “Crucible Moments: NVIDIA” / Fortune / Tom’s Hardware / CNBC / The New Yorker / CNN / Bloomberg / IEEE Spectrum / NVIDIA公式ブログ / HPCwire / Nicholas Wilt “Ten Years Later: Why CUDA Succeeded” / Tae Kim『The NVIDIA Way』(W.W. Norton, 2024) / SEC Filing / Wall Street Sights / GIGAZINE / 東洋経済
この記事を書いた人
wata9488
フリーライターとして活動しています。 東京在中AI中毒末期。Claude CodeとCodexに人生をささげてます。




























