【主な登場人物】
主人公:伊藤忠兵衛(初代)
八重:初代忠兵衛の妻
精一:二代目忠兵衛
私が大阪に紅忠を作った1872年より6年前。実は私は近江商人藤野家の長女である八重と結婚をしている。商家の人間は商家同士で婚姻を結び、ネットワークを広げるというのが一般的だったので、これはとても自然な結婚だった。
八重は商人の娘で、商人に嫁ぐという意志を子どもの頃から持っていたので、商売に関する知識をすでに持っていた。私と対等に話ができるし、これからどうしていくのかということについても相談できた。妻ではあるのだが、経営のパートナーという感覚を私は持っていたと言ってもいい。
「忠兵衛様。私は大阪へは行かず、近江の本邸で家を守らせていただきます」
と言われたので二つ返事で許可をした。彼女ならすべてを任せられると思ったからだ。近江商人は地元との繋がりを決してなくさない、というのが一般的だった。もし、八重も大阪に来てしまっていたら、近江の伊藤家は近江商人との縁が薄くなってしまっていた可能性がある。
近江に残った八重は、地域の人たちとのネットワーク維持のために奮闘しただけではなく、資産管理や使用人の教育、通信による経営サポートもしてくれた。私は紅忠で寝泊まりをしていたので別居状態ではあったが、経営に関する手紙のやり取りをほぼ毎日していたように思う。私は本当に、いい妻と巡り合えたといえる。
大阪に紅忠を作った私はまず「店法」を作った。内容は大きく分けると4つだ。会議制による意思決定。利益三分割主義。学問・教育の推奨。奉公人の権利と義務の明確化。
私は自分だけが儲かる仕組みを作りたいとは思っていなかったし、そこで働く人たちも成長できる環境にして、自ら仕事をしたいと思えるようなモチベーションを持ってほしいとも思っていた。だから、うちに来た者たちには、この店法を伝え、そのルールによって動くように伝えた。まぁ、会議制を導入できたのは、1886年になってからなので、少し後の話になるが……。
1880年代に入り、紅忠もだんだんと軌道に乗ってきた。私が大阪で、八重が近江というのは変わらないのだが、妻は近江(伊藤本店)で紅忠で働く人間の新人教育もするようになっていた。おかげで大阪では、初めから即戦力として働いてもらえるため、私も商売がしやすかった。
そんな中、世の中の情勢が少しずつ変わってきた。商人の間で自分の店の製品やサービスを他店と区別し、信用を保証するための商標(マーク)があった方がいいのではないかという考えが出始めたのだ。
それに私自身、そろそろ紅長からも脱却したいという気持ちも芽生えている。当初は、紅長のネットワークの一部として活動をしていたが、商売が軌道に乗った今であれば、分家が独立した証として「初代伊藤忠兵衛の店」というアイデンティティを視覚化してもいいのではないかという気持ちにもなっていた。
「どうしたものか……」
「あら、今は何に悩んでいるの?」
用事を終えた八重が夫婦の部屋に入ってくる。今はちょうど私も、近江に戻ってきていたところだった。
「いや、そろそろうちもマークを考えた方がいいなと思ってさ」
「マーク?」
私は事の説明をする。
「確かにそれは、あった方がいいわね。今の紅忠はお兄さんの庇護があってこその店というわけでもなくなっているし」
「だろ?一目で紅忠のものだってわかるマーク。それでいて近江商人の心得である三方よしを視覚化できたら……」
その時、私の頭の中で閃いたマークがあった。
「そうだ!紅の文字を丸で囲むのはどうだろう。紅色は誠実や情熱を象徴する色だし、それを囲むということは、店員同士の団結や顧客との円満な関係を表現できるじゃないだろうか」
「素敵ね!さっそくマークとして使いましょう!」
こうして1883年に、紅忠の店の暖簾に丸の中に紅を書いたマークをつけることになった。その翌年には、日本で最初の商標条例が交付されたので、いいタイミングだったといえる。
1884年になると、店で扱うものも変えた。これまでは麻布や古着などの呉服中心だったが、近年増加傾向にある綿糸の取扱いを開始した。この当時の日本は紡績工場が次々と誕生しており、その業界に手を出さないのはもったいないと思ったというのもある。だが、このまま紅忠で取り扱っていくのかと考えると、少し抵抗があった。紅忠は近江商人の伝統的な商売方法をとっているが、その中に成長産業を取り込んでいいのかということ。それに綿糸では取引先や、決済方法、回転率も異なってくる。
「これは……別の店を構えたほうが効率的かもしれない」
そう思った私は、1885年に伊藤糸店を大阪に作った。紅忠ではこれまで通り呉服を販売し、伊藤糸店では材料である綿糸を販売するという風に分けたということだ。これが後の丸紅と伊藤忠商事になっていくということを知らずに――。
さらに翌年、プライベートなことで嬉しい知らせが入ってきた。八重が長男を出産したのだ。いずれ二代目忠兵衛に襲名することになるが、今は精一という名前を授けた。
「これが、私の息子か……」
「えぇ精一よ。あなたに似て、とても頭がよさそうよね」
「ふふ……そうか。じゃあお前が大きくなった時に、胸を張って渡せるような店にしておかないとな」
「えぇ、そうして。私はこの子を商人の長男として、しっかり教育するから」
「あぁ、任せたぞ、八重」
精一が生まれ、私はさらに仕事に身を投じるようになった。
実は私は大阪に紅忠を構えた時から、もう一つしていたことがある。それは大阪商人が集まる場所づくりだ。大阪商法会議所が設立した時から大阪を代表する商人として参画している。また、大阪の有力実業家として議員を務めたこともある。
私は常日頃から三方よしの考えのもとで商売をしているため、自分だけが儲かろうという考えがない。だからこの会議所の設立のための支援もしたし、合理的な経営や会計制度の普及を働きかけた。また若い頃に長崎で見た光景を胸に刻んでいたため、直輸出と貿易振興の推進のためにも奮闘している。
そして、そんな私が最後にしたことは、大阪に本店がある近江銀行の再建だ。近江銀行は近江商人の出資によって設立されたものだったが、放漫経営により破錠寸前だった。そこで私に何度か頭取になってくれという打診が来たのだ。初めは断っていたものの、近江商人の信用を失墜させてはいけないという責任感が強くなり、無報酬で引き受けた。
私が近江銀行の頭取になったのは1901年だ。私はこの再建のために心血を注ぎこんだ。私財も投げうって補填もしている。不透明な貸し付けを整理し、厳格な審査基準を作った結果、大阪・近江を代表する銀行としての地位にまで回復させた。だが――
「あなたー!!!」
1903年。私は激務の中で倒れ、須磨の別荘で亡くなった。
私が亡きあと、誰が二代目忠兵衛になるのかという論争が巻き起こった。なぜなら私の息子はまだ16歳だったからだ。それに紅忠と伊藤糸店は、私の強力なリーダーシップと信用で成り立っていたといっても過言ではない。そのため、店員や取引先の間で「店は閉めるのではないか」「有力な番頭が後を継ぐのではないか」と囁かれた。しかしそれらを黙らせたのは、ほかならぬ私の妻である八重だ。
私の葬儀の後、八重は親族や重鎮の番頭を集めた会議の席についた。
「みなさん。様々な噂が流れているのは知っています。ですが私は亡き主人の遺志を継ぎ、精一を二代目忠兵衛として後継者に据えます。店員は一人も欠けることなく、これまで通り精励してほしいのです!」
と言った。つまり、店は閉めないし、番頭が後を継ぐこともないときっぱりと伝えたということだ。この意見に驚いた人もいれば、頷く人もいた。まだ全員の不安は取り除かれていない。
「ただ、私とまだ幼い精一だけで、亡き初代忠兵衛の代わりはできません。そこで、番頭の越後正吉」
「はい!」
「あなたを始めとする番頭に実務の全権を委託します。期間は二代目が舵を取れるようになるまでよ」
「かしこまりました奥様!」
この言葉で、八重が店を好き勝手にしようとしているわけではないし、自分の実力を見誤っているわけではないということが、全員に伝わった。そんな中、1人が八重に質問をする。
「あの、これから奥様は近江を離れて大阪に行くのでしょうか?」
「いいえ。私は先頭に立つ人間ではありません。これまで通り、この近江に身を置き、精神的な支柱として、そして店員の人間教育の責任者として、これからも組織を後ろから支える役に徹底させていただきます。トップが不在の中、守りの私までいなくなったら困るでしょ?」
八重は商店の最後の砦役として、これからもこれまでと同じように立ち振る舞うという言葉に、みんながそれぞれのポジションで働いていこうと決意したように見えた。さすが、私が誰よりも信頼する経営パートナーであり、よき妻だ。私はこれで安心して眠れる……だがあともう少しだけ、見ていこう。精一がどうなったのかが気になる。
大津の中学校に通っていた精一は、私の危篤の連絡を受けてすぐに駆け付けてくれたが、須磨までは遠く、最後に言葉を交わすことができなかった。そして、八重の判断で中学4年生で中退をさせ、神戸高等商業学校へ進学をした。当時の中学は5年制だったが、高等商業学校には「予科」というものがあり、中学校を4年修了、もしくは同等の学力があると認められたものは、5年通って卒業をしなくても受験・入学が可能だった。その制度を八重は利用したというわけだ。そして私が亡くなった翌月には、息子は二代目伊藤忠兵衛を襲名した。
「お母様。私は本当に神戸高等商業学校(現代の神戸大学)に通っていてもよいのでしょうか? 少しでも早く二代目として振る舞えるようになるために、家業に専念した方がよいのではないでしょうか?」
「お父様が亡くなられて焦る気持ちがあるのは分かります。ですが、今は勉学に励みなさい。お母様はこの家で教育係として、何十人もの従業員を育ててきました。その中には、今の番頭になっている人もいます。商人にとって勉学は何よりも重要なことなのですよ」
「それは分かっております。けれど……」
「それに、私たちでは行けない新しい場所へ行くというのもポイントです。お父様は若い頃、近江を飛び出し、1人長崎まで行ったのですよ?その感覚があったからこそ、家業をここまで大きくできたのです。あなたも新しい場所を求めて、何かないかと探してきなさい。これも修行です」
「お母様……! はい、わかりました。精進いたします!」
その後、八重の言う通り、精一は神戸高等商業学校で生涯の恩師となる水島校長と出会った。この人物は教育者の器に収まる人間ではなく、実務に精通した「商業教育の父」と呼ばれている。
水島校長は「士魂商才(しこんしょうさい)」という精神を教えている。これは、武士のような高い倫理観と、商人としての優れた計算・実務能力を併せ持つことを示唆しており、精一はこの考えに深く共鳴していた。
そうして学校を卒業した精一を、八重はすぐに経営の座に置かなかった。紅忠と伊藤糸店の一店員として、中に入らせたのだ。いきなり経営から始めてしまうと、働き手の感覚を掴めないというのもあるだろうし、商人は丁稚修行から始めるというのが常とうだ。私が生きていたとしても、同じように精一には丁稚修行をさせていただろう。
丁稚修行を1年ほど行った頃、精一は腸の病気で数日間入院することになった。
「店の経営を根本から合理的にしなければ、この先の発展は難しいように思う。だが、それをどうすればいいのかが分からない」
入院しているというのに、精一は家業のことばかり考えていた。私は、その姿がとても微笑ましく思った。私も若い頃、色々な場面で自問自答してきたからだ。そして、ちゃんと最後には答えを出すことができた。きっと、精一も……いや二代目忠兵衛も正しい答えを出すことができるだろう。
その後、二代目忠兵衛は半年間ロンドンに留学し、海外で経験したことを取り入れつつ、経営方針を固めていった。そして、商店だった店を法人化。その後、合併、分離を繰り返し、最終的に紅忠(伊藤本店)は丸紅という名前に変わり、伊藤糸店は伊藤忠商事という名前へ。現代も当時の理念をもとに会社は続いている。
私亡き後も倒産することなく続いている大会社になれたのは、八重や精一、そして関わってくれたすべての人たちのおかげだろう。私は初代忠兵衛として、これほど幸せなことはない。
【あとがき】
今回の創業物語は、途中で主人公である初代忠兵衛が亡くなってしまうという話になりました。近江商人としての考えを基盤に作られた考えは現代でも通じており、奥が深いと改めて感じています。「近江商人」というところだけに焦点を当てても、面白いお話が書けるかもしれません。
《参考資料》
丸紅株式会社/社史・沿革(公式サイト)
伊藤忠商事株式会社/歴史・沿革(公式サイト)
伊藤忠兵衛記念館(滋賀県豊郷町・公益財団法人 忠兵衛記念財団)
神戸大学経済経営研究所「社史データベース」および「水島銕也伝記資料」
大阪商工会議所「大阪商工会議所歴代議員名簿・沿革」
この記事を書いた人
岩本和代
2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。

























