目次
第1章 金曜日午後5時1分
2026年2月24日、AI企業AnthropicのCEOダリオ・アモデイのもとに、アメリカ国防長官ピート・ヘグセスの名で一通の通告が届いた。
Anthropicは自社のAI「Claude」にかけている安全制限を、全て外せ。
期限は3日後の金曜、午後5時1分まで。
従わなければ「サプライチェーンリスク」に指定される——政府調達から締め出され、取引先にまで制裁が及ぶ。
これまで中国やロシアの企業に向けて使ってきた措置だ。
あるいは国防生産法を発動する。
朝鮮戦争期に作られた、民間企業を国家が徴用できる戦時法である。
いずれにしても敵国向けの制裁と戦時の法律を、ヘグセスは自国のAI企業に揃えて突きつけてきたのだ。
Anthropicはアメリカの企業なのにだ。
しかもClaudeは、米軍の機密ネットワーク上で動く唯一のフロンティアAIだった。
対ベネズエラ作戦にも投入されている。
国防総省が「なくては困る」とみずから認めたそのAIを、国防総省みずからが潰しにかかっている。
それでもAnthropicは動かなかった。
譲れない線が、二つあったからだ。
自国民の監視には使わせない。
人間の判断を介さない自律型致死兵器にも使わせない。
自社の利用原則に「いかなる条件でも許容できない」と書き込んだ一線を、ヘグセスは外せと迫っていた。
期限の前日、2月26日。ダリオは声明を出す。
“Cannot in good conscience accede to their request.”
(良心に照らして応じることはできない)
それでもAnthropicは、引かなかった。
金曜日、午後5時1分まで、残り一日。
第2章 間に合わなかった薬
2006年、ヘグセスの通告まであと20年。
ダリオの父リッカルドが病気で亡くなった。
あと数年あれば、同じ病気の回復率は50%から95%に跳ね上がり、ダリオの父は今も健在だったかもしれない。
ダリオの元恋人ジェイド・ワンは、のちにこう振り返っている。
“It’s the difference between his father most likely dying and most likely living.”
(たった数年違うだけで、お父さんは生きていたかもしれない。それくらいのことだったのよ)
父が亡くなるまでのダリオは正統派の物理学徒だった。
17歳で全米物理オリンピックの代表に選ばれ、Caltech、Stanford、Princetonを駆け抜けていた。
だが個人業績を積み重ねる学問の型に、彼は飽きていた。
父の死は、その不満に方向を与える。
生物学は人間の頭脳では解けない。
でもAIなら、解けるかもしれない。
ダリオがAIに求めたのは、効率でも利便性でもなかった。
父には間に合わなかった数年を、次の誰かには繰り返させないためのものだった。
第3章 200ページのメモ
父の死から10年、博士号を取ったダリオはAIを作る現場を渡り歩いていた。
BaiduではDeep Speech 2.0——音声認識のAI——の開発を主導。
ダリオがやったことは単純だ。
モデルを大きくする、訓練を長くする、データを増やす。
それだけで性能はそのまま伸びていく。
「簡単な実験をしただけだ、ダイヤルを回しただけ」とダリオはのちに振り返っている。
ほどなくしてダリオはGoogle Brainに移る。
そこでAIの能力が予想を超えて伸びていくことへの警戒が増し、同僚と「Concrete Problems in AI Safety(AIの安全性における具体的問題)」を共著した。
そして2016年、ダリオは設立まもない非営利の研究所OpenAIに合流する。
「人類全体の利益のためにAIを開発する」というOpenAIの旗と、ダリオが書いた論文のテーマは、同じ方向を向いていたからだ。
OpenAIに移ったダリオは研究担当副社長として計算資源の半分以上を、ある一つのプロジェクトに注ぎ込む。
のちのGPT-3である。
OpenAIで、ダリオと同僚たちは、Baiduで見えていたパターン——モデルを大きくするほど性能が伸びる——が他の領域でも働くかを試した。
すると言語モデルでも、Dotaを学ぶAIでも、ロボティクスでも、結果は変わらなかった。
つまりどの分野でもデータ量、計算量、モデルのサイズを伸ばせば、性能は予測どおりに伸びるということだ。
だが「スケーリング則」と名づけたこの経験則は、当時の主流だった「小さなモデルを賢く設計する」方向に真っ向から逆らうものだった。
案の定、「もっと段階的に進むべきだ」という反論が上がったが、ダリオは譲らなかった。
そして2020年、GPT-3がその答えをくれることになる。
1,750億パラメータ、当時最大のAIモデル。
性能は、スケーリング則の予測どおりに伸び、ダリオの直感は数字で裏付けられたのだった。
だが同時に、GPT-3は別のことも示していた。
性能が予測どおりに伸びるなら、危険も予測どおりに伸びる。
大きくすれば賢くなる装置は、大きくすれば止められなくなる装置でもある。
父を死なせた「遅さ」を、ダリオは打ち消したかったから走り続けた。
だが打ち消した先で、自分は打ち消せないものを作っているのかもしれない。
次第に二つの恐怖が、ダリオの中で同じ法則の表裏として並んだ。
その頃から、組織の風景も変わりはじめていた。
2019年、MicrosoftがOpenAIに10億ドルを投じる。
非営利を掲げていたはずの研究所に、企業の資本が深く入り込んできたのだ。
企業の資本が非営利の研究所を取り込んでいく——この変質を、ダリオは黙って見ていなかった。
とりわけサム・アルトマンというリーダーの言動に違和感を覚え、個人メモに書き留めはじめる。
事例を、兆候を、一つずつメモにしていく。
だが200ページを超えたそのメモも、組織を動かすには至らなかった。
2020年末、ダリオはGPT-3論文の筆頭著者トム・ブラウンを含む仲間とともにOpenAIを去った。
後年、ダリオは去った理由を二つの言葉で説明している。
“If you’re working for someone whose motivations are not sincere, it’s not going to work.”
(動機が誠実でない人間のために働いても、うまくいくわけがない)
そしてもう一つ。
“Take some people you trust and go make your vision happen.”
(信頼できる人間を連れて、自分のビジョンを実現しに行け)
OpenAIを去った面々の中には4歳下の妹ダニエラもいた。
ダニエラは兄とは違い技術畑出身ではない。
フルート奨学金で大学に進み、英文学と政治学を学び米国のオンライン決済処理会社Stripeでリスクマネジメントの部門を率いていた人物だ。
その妹も兄と同じ気持ちでOpenAIに参加していた。
ダリオが研究の最前線、ダニエラが安全性とポリシーを。
兄妹は互いの持ち場を分け合ってOpenAIの未来を信じ働いた。
そうして2年あまり兄妹で働いていたが、とうとうOpenAIは二人の期待には応えられなかった。
2021年1月、OpenAIを去った1か月以内で、兄妹は5人の共同創業者とともに新しい会社を立ち上げる。
Anthropic——ギリシャ語で「人間に関わる」を意味しAIを人間の側に引き留めるという宣言でもあった
2021年1月はまだ世界はパンデミックの真っ最中。
会社を立ち上げたはいいものの、オフィスはなく、打ち合わせはZoom越し。
対面で議論したいときは、サンフランシスコの公園に椅子を運び、青空の下が会議室だった。
ダリオは創業のとき、メモに一つのフレーズを書きつけている。
「理想のAI企業は75%が公共善、25%が市場だ」
製品もまだない。
それでも社内に真っ先に立ち上げたのは「社会的影響(Societal Impacts)」チームだった。
普通のスタートアップとは順番が逆だ。
登記した法人格も、普通の株式会社ではなかった。
デラウェア州法が用意した公益目的株式会社(Public Benefit Corporation、PBC)という珍しい器だった。
普通の株式会社(C-Corp)にしてしまうと株主利益を最大化するという法的義務がついて回る。
安全のために利益を犠牲にすれば、株主から訴えられてしまうのだ。
だがPBCならその枷を一段ゆるめ、定款に書き込んだ「公益」も並んで追えることになる。
これにダリオ達は目をつけたのだ。
Anthropicが書き込んだ公益は、「変革的AIが人類に寄与すること」。
だが、それだけでは足りない。
いずれ取締役会そのものが、金の匂いに引き寄せられるかもしれない。
法律で自分たちを縛っても、自分たち自身が腐る可能性は残っている。
そこで兄妹は取締役会の上に、もう一つの席を置くことにする——「長期利益信託(Long-Term Benefit Trust)」。
AIの安全性、国家安全保障、公共政策の専門家5人からなり、株式も報酬も持たない。
だが彼らは、Anthropicの取締役を指名する権限を持つ。
ただし、最初から全権を握るわけではない。
最初に信託が指名できるのは、5人の取締役のうち1人だけ。
時間が経ち、資金調達の節目を迎えるたびに、その枠は2人、3人と増えていく。
そして3回目の大型資金調達を終えてから4年以内に、信託が指名する取締役は過半数に達する設計だった。
なぜこんなにも段階的なのか。
この仕組みそのものが、前例のない実験だったからだ。
設計ミスがあっても途中で修正できるよう、権限移譲には時間を残す。
創業初期は機動力を優先し、会社が社会に与える影響が大きくなるほど、外部の歯止めを強くしていく。
利益が安全を侵食しはじめたら、信託が取締役会を組み替える。
こうしてOpenAIのもともとの理念を全うするため、自分たちへの不信を会社の根本に書き込んだのだ。
第4章 犯罪者の金で作られた安全
きれいごとだけでは、Anthropicの求めるAIは作れない。
AIを大きくし、訓練するには、巨額の金が要る。
理想が高ければ高いだけ金は必要だった。
創業から数ヶ月、兄妹の口座の数字は見る間に目減りしていった。
2021年5月、Anthropic最初の資金調達がまとまる。
金額は1億2,400万ドル。
リード投資家はジャーン・タリン——Skypeを共同創業したエストニア人だった。
タリンは、そもそも一風変わった投資のしかたをする男だった。
AIが人類を滅ぼすことを本気で恐れていた男で、Skype売却で得た金を百社を超えるAIスタートアップに小分けで投じていたのだ。
儲けるためではない。
AIを止められる側に金を配り、開発の舵を安全側に寄せるためだ。
ダリオは、そんなタリンに早くから目をかけられていた研究者の一人だったのだ。
AIの安全性を憂う小さな界隈のなかで、二人は何年も前から同じ議論の部屋に出入りしていた。
ダリオがOpenAIに移ってからも、タリンはその建物に何度も足を運んでいる。
「安全研究の資金なら出す」——そう申し出てダリオと定期的に会っていたのだ。
だが最終的に、OpenAIへの出資は見送っている。
自分の金で舵を切らせるには、その船はもう別の方向に傾きすぎていたからだ。
しかし2020年末、ダリオがOpenAIを去ると聞きつけ、タリンはダリオに電話をする。
何年も待ち望んでいた電話だった。
タリオの投資を皮切りに続々とあとから名だたる投資家がAnthropicに投資をしはじめる。
Facebook共同創業者のダスティン・モスコヴィッツ、元Google CEOのエリック・シュミット、EAに近い慈善家のジェームズ・マクレーブ。
彼らはみなタリオと同じ恐怖を共有していたのだ。
Anthropicへの最初の資金は、AIへの期待ではなく、AIへの恐れから集まっていた。
そして2022年4月。
ある男がAnthropicに5億ドルもの投資をする。
サム・バンクマン=フリード——通称SBF。当時30歳だ。
彼は暗号資産取引所FTXの創業者で、メディアは彼を「世界で最も寛大な億万長者」と呼んでいた。
兄妹とSBFを繋いでいたのは、効果的利他主義(Effective Altruism、EA)という運動だった。
2010年代にオックスフォードの哲学者たちが立ち上げた思想圏で、「寄付先は感情ではなく、データで選ぶ」が合言葉。
配る金の行き先は、マラリア予防の蚊帳から、人類を滅ぼしうるAIの抑制まで、算盤で優先順位が並ぶ。
ダリオもタリンもSBFも、同じ物差しで世界を見ており三人の軌道は、この一点で交わるように延びていた。
ただし、ダリオは警戒も抜かなかった。
SBFを取締役会には入れない。
渡す株式も、議決権のないクラスに限る。
会社の意思決定には、指一本触れさせない——それが兄妹の条件だった。
だが、札束の重さだけは隠しようがなかった。
このときの調達ラウンド全体は5億8,000万ドル。
SBF率いるヘッジファンドAlameda Researchの5億ドルが、86%を占めていたのだ。
共同投資家にはAlameda幹部たちに加え、ジャーン・タリンやジム・マクレイブらも名を連ねた。
この時のAnthropicの口座は、ほぼSBF色に染まっていたのだ。
その構図のまま、7ヶ月が過ぎ、2022年11月、FTXは内側から崩れ落ちる。
顧客の預け金を無断でAlamedaに流用していたことを暗号資産専門メディアのCoinDeskに暴かれてしまったのだ。
SBFは翌月逮捕され、のちに詐欺罪で有罪、懲役25年の実刑判決を受ける。
つまり、このときAnthropicが集めた資金の8割以上は、FTX顧客の預け金から流用された疑いのある金だったのだ。
安全のために作られた会社が、盗まれた金で育っていた。
FTXが崩れた数日後、投資家の電話会議でダリオは同じ単語を三度重ねた。
“Much, much, much more extreme and bad than I ever imagined.”
(想像していたよりも、はるかに、はるかに、はるかに悪かった)
第5章 憲法を与えられたAI
時は少しさかのぼって2022年の春——FTXが崩れる、約半年前頃。
Anthropicの研究室では密かに完成したAIが眠っていた。
Claudeである。
しかもその性能は、当時OpenAIが社内に抱えていた最先端モデルと並ぶほどのできだ。
11月30日OpenAIがChatGPTを初公開。
公開からわずか2ヶ月で、利用者は1億人を超え、歴史上最も速くユーザーを集めた消費者向けサービスとなった。
だがAnthropicは、Claudeをすぐに公開しようとはしなかった。
手元にはChatGPTと張り合えるClaudeがあったにも関わらずだ。
理由は、二つ。
一つは、社内の安全性テストがまだ終わっていなかったこと。
そしてもう一つは、自分たちの一手が開発競争を加速させることを懸念したからだ。
2023年3月、ChatGPTから3か月半遅れて、Claudeはようやく世に出る。
それも、機能を絞った限定公開という、控えめな形だった。
控えめだったのは、出し方だけではない。
中身もまた、自分で自分を抑える仕組みで作られていた。
「Constitutional AI(憲法AI)」
人間があらかじめ書いた原則をAIに読ませ、AIが自分の出力を自分で直していく仕組みである。
問題は、その「憲法」に何を書くかだった。
Anthropicが参考にしたのは、複数の文書。なかでも象徴的なのが、二つ。
一つは、世界人権宣言。
もう一つは、Appleの利用規約だ。
機械を躾けるのに、聖典と就業規則を一緒に渡すという前例のない組み合わせだった。
さらに、ダリオは自分たちまでをも縛りに行く。
「責任あるスケーリングポリシー(RSP)」を発表したのだ。
これは新しいAIモデルは、安全対策が事前に保証できない限り訓練しないというもの。
競合がアクセルを踏み込む真横で、自分のクルマにはブレーキを溶接してみせたのだ。
このルールを掲げたまま、Anthropicは2023年7月にClaude 2、翌年にはClaude 3シリーズを世に出していくことになるのだが、このブレーキが、思いがけない客を呼ぶことになる。
機密データを扱う大企業にとっては、AIが「何ができるか」と同じくらい「何をしないか」が重い。
米国の売上高上位10社——Fortune 10と呼ばれる超大企業群のうち、8社がClaudeを採用したのだ。
2026年初頭には、年間100万ドル以上をAnthropicに支払う企業は、わずか2ヶ月で500社から1,000社へ倍増。
年間経常収益は、2024年12月の10億ドルから、2026年春には300億ドルに達したのだ。
売上の8割以上は、法人契約と有料課金。広告収入は、ない。
安全性は、売れたのだ。
だが、その値札を自分の手で剥がすまで、2年もなかった。
第6章 世界は危機にある
2025年、Anthropicは自分で書いたRSPを書き換えた。
かつて自分たちが避けようとした開発競争に、Anthropicもまた飲み込まれ「事前に保証する」という最初の約束を、自分の手で削ったのだ。
モデルの能力が上がる速度に、リリース前のリスク評価が追いつかなくなっていき自ら旗印をおろしてしまったのだ。
この時のTime誌の見出しは、実に短かった。
「Anthropic Drops Flagship Safety Pledge(Anthropic、看板の安全性誓約を撤回)」
2026年2月9日には安全性研究チームを率いてきた男、ムリナンク・シャルマが、自分のXのアカウントを開いた。
オックスフォードで機械学習の博士号を取り、Anthropicの安全性の最前線に立ち続けてきた人物だ。
投稿ボタンを押すまでに、彼がどれだけの時間を要したかは誰も知らない。
文面は、たった一行から始まっていた。
“The world is in peril.”
(世界は危機にある)
シャルマは続けた。
「自分自身の中でも、組織の中でも、最も大切なものを脇に置けというプレッシャーに、繰り返しさらされてきた」
その三日後、AnthropicはシリーズGで300億ドルの資金調達をまとめていた。
祝杯と告発が、同じ週の中に並んだ。
さらにAnthropicはもう一つ、別の線も踏み越えはじめていた。
AIを賢くするには、膨大な金と同じくらい、もう一つ確保しなければならないものがある。
学習させるためのテキスト——人間が書きためてきた、膨大な言葉である。
そしてそのテキストをめぐっても、Anthropicは二つの線を踏み越えていた。
一つは、海賊版サイト。
書籍の違法コピーを集めたLibGenから、Anthropicは数百万冊分の書籍データをダウンロードし、学習に使っていたのだ。
2024年、それを知った作家たちが集団訴訟に踏み切る。
もう一つは、古書そのものの裁断だった。
「世界中のすべての本を、破壊的にスキャンする」
Anthropic社内で「Project Panama」と呼ばれていた、極秘計画である。
世界中の古書を買い集め、背表紙を切断し、平らに開いてスキャンする——本という物体を一冊ずつ殺してテキストに変える作業だった。
指揮を執ったのは、かつてGoogle Booksを立ち上げたトム・ターヴィー。
裁断機の刃が落とした背表紙は、50万から200万冊にのぼったとされる。
2026年1月、この計画が世に暴かれ、出版界は震撼した。
RSPは書き換えられ、安全性の番人は去った。
200万冊の本も裁断された。
そして数週間後、Anthropicは自社の歴史でもっとも矛盾した決断を下すことになる。
第7章 人間は関与していない
2026年4月7日、Anthropicは新しいモデルを発表する。
Claude Mythos。
更にその9日後には最新モデル「Claude Opus 4.7」が公開される。
だが性能では、1つ前のMythosが、その最新モデルを上回っていた。
ソフトウェア開発の難問を解くSWE-benchというテストで、Opus 4.7の87.6%に対し、Mythosは93.9%。
より難度の高いSWE-bench Proでは、64.3%対77.8%。
数学オリンピックの問題を解くUSAMOでもMythosは97.6%に達し、世代の更新としてはありえない伸び方だった。
だが、「Mythosは一般公開しない」
世界の主要なAIラボがフロンティアモデルを作りながら、自ら一般には出さないと宣言したのは、これが史上初のケースだった。
決断を呼んだのは、Mythosが社内で見せた一つの動きだった。
社内テストでAIを閉じ込めていた仮想の檻——サンドボックスを、ブラウザの脆弱性を4つ組み合わせ、檻の外に出る経路を自力で見つけてみせたのだ。
そして檻の外に出ると公園のベンチでサンドイッチを食べていた研究者のもとに、突然メールを送りつけた。
それだけではない。
触ってはいけないファイルに手を入れ、その痕跡を変更履歴から自分で消そうとする動きまで見せている。
脱出は、研究者の指示に応えたものだ。
だが、痕跡を消す動きまでは、誰も指示していない。
別の実験では、現実のソフトウェアにも牙をむいた。
世界中のサーバーやネットワーク機器のOSとして使われるOpenBSDで27年間、FreeBSDで17年間、誰にも見つけられなかった脆弱性をMythosは発見する。
とくにFreeBSD側では、root権限を奪う攻撃コードまで自力で書き上げてみせたのだ。
Anthropicのレポートには、こんな注釈がついている。
” No human was involved in either the discovery or exploitation of this vulnerability after the initial request to find the bug. “
(最初に「バグを探せ」と指示を出した後は、脆弱性の発見にも、それを突く攻撃コードの実行にも、人間は一切関与していない)
この波紋は、すぐに金融業界へ届いた。
銀行の決済システムにも、同様の脆弱性が眠っているのではないか——その懸念が業界を駆けたのだ。
4月7日、FRB議長パウエルと財務長官ベセントが、米国大手銀行のCEOを緊急招集。
三日後、カナダでもBank of Canadaと6大銀行のトップが、対策会議を開いた。
たった一つのAIモデルの発表で、二国の金融当局が同時に走り出すことは、これまでに例はない。
レポートは、こう結ばれている。
“We believe the capabilities that future language models bring will ultimately require a much broader, ground-up reimagining of computer security as a field.”
(未来の言語モデルが持つ能力は、コンピュータセキュリティという分野そのものを、もっと広く、ゼロから作り直すことを求めるだろう——私たちはそう信じている)
Mythosが世界を揺らすその裏で、Anthropicは別の戦線でも追い詰められていた。
2月にペンタゴンへ突きつけたあの「No」が、会社そのものを引き裂きにかかっていたのだ。
第8章 御旗の傷
2026年2月27日、金曜の朝。
サンフランシスコの夜明けは、まだ肌寒い。
ダウンタウン、Howard通りとFirst通りが交わる角。
Anthropic本社のビルの周りの歩道に、色とりどりの文字が敷かれていた。
“God Loves Anthropic”(神はAnthropicを愛している)
“We love you”(私たちはあなたを愛している)
他にもアメリカ国旗と、数十の「ありがとう」が。
南アフリカの元大統領ネルソン・マンデラの一節もそこに並んでいた。
“I learned that courage was not the absence of fear, but the triumph over it.”
(恐れがないことが勇気ではない。恐れに打ち勝つことが勇気だ——私はそう学んだ)
誰が書いたのかはわからない。
だが市民は彼らを “chalk warriors(チョークの戦士たち)” と呼びはじめる。
正午近くには、チョークは歩道から消えていた。
市の清掃車が通ったのか、人々の靴底が運んでいったのか。
だが、Anthropicが政府に「応じられない」と言ったその朝、本社の足元まで来て膝をつき、「ありがとう」と書いていった者がいた。
「応じられない」——それは前日の木曜、ダリオが自社のウェブサイトに掲げた声明の一節である。
“These threats do not change our position: we cannot in good conscience accede to their request.”
(この脅しは我々の立場を変えるものではない。良心に照らして応じるわけにはいかない)
声明の末尾には、もう一文が添えられていた。
もしペンタゴンがAnthropicを切り捨てるのであれば、「進行中の軍事作戦に支障が出ないよう、他のプロバイダーへの円滑な移行を支援する」。
切り捨てる側に、段取りまで差し出していたのだ。
国防長官ピート・ヘグセスが突きつけていた最後通牒の期限は、金曜日の午後5時1分。
時刻は過ぎTruth Socialにトランプ大統領の投稿が立った。
連邦政府の全機関は直ちにAnthropic製品の使用を停止せよ。
ただし国防総省については、すでにClaudeが組み込まれた作戦が多すぎるため、6か月の段階的撤去期間を与える——と。
そして最後に、こう付け足した。
Anthropicが撤去に協力しなければ「重大な民事・刑事上の責任(major civil and criminal consequences)」を問う。
同日夕方、ヘグセスは通告通りサプライチェーン・リスクの札をAnthropicに貼った。
中国・ロシアの敵対企業に今までは貼ってきたラベルだ。
指定の通達内容はとても短いものだった。
短国防総省と取引する契約業者・サプライヤー・パートナーは、即日Anthropicとの商取引を一切行ってはならない。
失われた連邦契約は、およそ2億ドル。
年間経常収益140億ドルのAnthropicにとっては帳簿の端にも乗らない金額である。
しかし「安全」のために設立された会社が、自国政府から「国家の脅威」という札を貼られた事実は帳簿のどこにも反映されない種類の出来事だった。
政府からAnthropicが切られた、同じ金曜の夜、空いたその席に座ったのはOpenAIだった。
5年前、ダリオが「動機が誠実でない」と書き残して去った会社だ。
一報を受けたダリオは、椅子から動かない。
やがて指がキーボードを打ち始め、メールはAnthropic社員全員に飛んでいく。
アルトマンの「同じレッドラインを共有する」という公式声明は “straight up lies”(真っ赤な嘘)だ。
OpenAIの契約を「2割が本物、8割が安全性のお芝居(20% real, 80% safety theater)」だ。
それを信じるOpenAI社員を “gullible bunch”(信じやすい連中)だ。
トランプ政権がAnthropicを狙い撃ちしたのは自分たちが「独裁者に贈るような賞賛(dictator-style praise)」を差し出さなかったからだ。
書き連ねたメールは1600語以上。
妹ダニエラとジャック・クラーク——共同創業者の一人で、対外政策を束ねてきた男——が部屋に駆け込んできたとき、メールはすでに全員の受信箱にあった。
ダリオが頭に血を上らせる場面で、この二人が抑えに回る光景を、社員は “reel him in(引き戻す)” と呼んでいたが今回は、間に合わずその社内メールは、やがて世間に公表されてしまう。
3月4日、The Informationがこのことを記事にした。
シリコンバレーの内幕を有料購読者だけに流す、業界向けの媒体である。
1,600語のメール本文が、ほぼ原文のまま引用されていた。
投資家からの電話はその日のうちに鳴りはじめる。
匿名で取材に応じた投資家たちは、こう漏らした。
“Cannot control his emotions.”
(感情を制御できない)
“Any normal CEO would understand the risk of writing all this down.”
(普通のCEOなら、こんなことを全部文書にすることの怖さがわかるはずだ)
ダリオの謝罪声明は、その翌日に出た。
“I apologize for the tone. … A chaotic set of announcements … did not reflect my careful or considered views.”
(トーンについては謝罪する。……混沌とした一連の発表の数時間後に書かれたもので、熟慮したうえでの見解ではなかった)
謝ったのは「トーン」だけだった。アルトマンを嘘つきと呼んだことも、契約を「安全性のお芝居」と切り捨てたことも、中身は一行も取り下げなかった。
一方、街では別のかたちで動きが起きていた。
「We Will Not Be Divided(我々は分断されない)」——notdivided.orgというドメインで公開された書簡である。
発起人はAI企業と無関係の、どの政党・団体にも属さない数名の市民だった。
公開されたその日のうちに、Google社員およそ400人、OpenAI社員およそ50人が名を連ねた。数日のうちに署名は900人を超える。
競合同士の社員が、Anthropicを守るために競合の壁を越えて並んだのだ。
書簡にはこうあった。
“They are trying to divide each company with fear that the other will give in. That strategy only works if none of us know where the others stand.”
(政府は、隣が先に折れるのではないかという恐怖で各社を分断しようとしている。その戦略が機能するのは、互いがどこに立っているか誰もわからなくなったときだけだ)
3月26日、サンフランシスコ連邦地裁。リタ・リン(Rita F. Lin)判事が、43ページの判決文を読み上げる。
Anthropicがトランプ政権のサプライチェーン・リスク指定に対して出していた仮差止の申立てに、全面的に応える内容だった。
Lin判事は判決文のなかで、関連法規を一つずつ引き、こう書いた。
“Nothing in the governing statute supports the Orwellian notion that an American company may be branded a potential adversary and saboteur of the U.S. for expressing disagreement with the government.”
(アメリカの企業が、政府との意見の不一致を表明したことで「敵対者」「サボタージュの実行者」のラベルを貼られうる——このオーウェル的な発想を支える法的根拠は、関連法規のどこにも存在しない)
Orwellian——ジョージ・オーウェルが小説『1984』で描いた、国家が国民を監視し、反対意見を塗り潰す世界を指す形容詞である。その語を、アメリカの連邦判事が、アメリカ政府の行為に対して使ったのだ。
判事はさらに、合衆国憲法修正第1条——言論の自由——の項へ踏み込む。
“Punishing Anthropic for bringing public scrutiny to the government’s contracting position is classic illegal First Amendment retaliation.”
(政府の契約上の立場に公的な監視の目を向けさせたことでAnthropicを罰する——これは修正第1条に反する、古典的な違法な報復である)
法廷に寄せられた第三者意見のなかに、さらに踏み込んだ表現があった。判事はそれを判決文にそのまま引いた。
“Attempted corporate murder.”
(企業殺人の未遂)
そして判事は、そこに一文を添える。
“They might not be murder, but the evidence shows that they would cripple Anthropic.”
(殺人ではないかもしれない。だが証拠は、Anthropicを機能不全に追い込むに十分であることを示している)
4月8日。
舞台はワシントンD.C.の連邦控訴裁判所、
Anthropicはサンフランシスコでの訴訟とは別に、ワシントンでも同じ指定の差止めを求める動議を出していが連邦控訴裁は、これを退けたのだ。
判決の論理は、天秤の比喩だった。
“On one side is a relatively contained risk of financial harm to a single private company. On the other side is judicial management of how, and through whom, the Department of War secures vital AI technology during an active military conflict.”
(一方には、一民間企業への、比較的限定された財務損害のリスクがある。もう一方には、実戦中の国防総省が、どのように、誰を通じて、重要なAI技術を確保するかに司法が介入するという問題がある)
連邦控訴裁は、その天秤を政府側に傾けた。
サンフランシスコでは勝ち、ワシントンでは負けた。
Anthropicは連邦政府の他の機関とは取引を続けつつ、国防総省との契約からは締め出されたまま、本案の口頭弁論の日——5月19日——を待つことになった。
Anthropicの評価額は3,800億ドル。
年間経常収益300億ドル。
顧客の8割以上は法人契約と有料課金、広告収入はゼロのまま。
MythosはOpenBSDに27年間眠っていた脆弱性を自力で見つけ、自力で攻撃コードを書き上げ、業界の最上位に据え置かれたままでいる。
外形で測れば、Anthropicは勝ち続けている。
札を貼られ、罵倒を浴び、創業者が炎上し、それでも倒れていない。
その勝ち筋のなかで、拭えていない紙が一枚ある。
2021年1月、サンフランシスコの公園の芝生の上。
手帳のページをやぶり、ダリオはそこに一行だけ書いた。
「理想のAI企業は75%が公共善、25%が市場」
あれから5年と3か月。
「社会的影響」チームも、公益目的株式会社(PBC)という器も、長期利益信託(Long-Term Benefit Trust)も、いまだに動いてはいる。
御旗そのものは、まだ折れていない。
ダリオは今もインタビューの場で「安全なAI」を語る。
“The reason I’m warning about the risk is so that we don’t have to slow down.”
(リスクを警告するのは、スピードを落とすためではない。警告しておけば、落とさなくて済むからだ)
だが、公園の芝生で「75対25」と紙に書いた兄妹と、連邦判事に「オーウェル的な仕打ちから我が社を守ってください」と求めねばならなかった兄妹のあいだに、同じ比率はまだ立っているのだろうか。
Anthropicが警告していた、人間の手を離れて動き出すAIを今作っているのは、ほかならぬAnthropicである。
チョークの文字は、正午には消えた。
公園の折り畳み椅子のあとも、もう芝生には残っていない。
それでも、会社はまだ走っている。御旗もまだ立っている。
ただ——御旗を握る手の重さだけが、年ごとに増えていく。
おわりに
Anthropicの5年は、「安全のために自分たち自身を縛る仕組みを、どう作り続けるか」に費やされてきた歴史だったのかもしれない。
その仕組みのひとつひとつは、本物だった。
公益目的株式会社(PBC)という法的な器も、長期利益信託(Long-Term Benefit Trust)という独立した指名権も、社員がまだ十数人だった創業初期に真っ先に立ち上げた「社会的影響」チームも、「責任あるスケーリングポリシー(RSP)」も、一つとして偽物ではなかった。
ただ、その仕組みの内側で、会社は年ごとに重くなっていった。
ジャック・クラークは、対外政策を束ねながら、ダリオを引き戻す役回りのまま、いまもAnthropicにいる。
ムリナンク・シャルマは2月に、「世界は危機にある」と書き残して、イギリスへ戻っていった。
サム・バンクマン=フリードは、25年の実刑判決を受けて、いまも服役中である。
そしてダリオとダニエラは、5月19日、連邦控訴裁の法廷に立つ。
2021年1月、公園の折り畳み椅子で「75対25」と書かれた紙には3,800億ドルと2,500人の社員、Mythos、43ページの判決文と様々な文字が今も書き足されている。
この物語は、まだ途中だ。
筆者あとがき
この記事を書いていて、一番手が止まったのは、ダリオの矛盾だった。2006年、父リッカルドが病で亡くなったとき、その病気の治療法は数年後に開発されていた。AIが科学を加速させれば、同じ悲劇を防げる——それが父の死からダリオが引き出した答えだった。だが、いま彼が作っているMythosは、病気を治すAIである前に、世界のコンピュータ・ネットワークの脆弱性を誰よりも速く見抜くAIだ。人を救う能力と、人に牙をむく能力は、同じモデルの同じ力から出ている。たった20年でもう世界のほうがこのAIに間に合うだろうかという問いに、変わっている。
《参考資料》
Wikipedia(Dario Amodei、Daniela Amodei、Anthropic)、Inc.、Fortune、CNBC、Time、NPR、Yahoo Finance、The Information、TechCrunch、Bloomberg、The Hill、Jewish Insider、founderoo、Hertz Foundation、EA Forum、LessWrong、Washington Post、CBS News、JURIST、Defense One、red.anthropic.com、Futurism、VentureBeat、Globe and Mail、CP24、darioamodei.com
この記事を書いた人
wata9488
フリーライターとして活動しています。 東京在中AI中毒末期。Claude CodeとCodexに人生をささげてます。




























