目次
第1章 1億7,000万人のスマホが暗転した夜
2025年1月18日、土曜日の午後10時30分。
TikTokのアイコンを開いた指は、同じ一枚の画面に止まった。
” Sorry, TikTok isn’t available right now. A law banning TikTok has been enacted in the U.S.”
(申し訳ありません、TikTokは現在ご利用いただけません。アメリカでTikTokを禁止する法律が施行されました)
アメリカ全土1億7,000万台のスマートフォンから中国生まれのアプリが一斉に消えた瞬間だった。
App StoreとGoogle Playからも削除され、TikTokのトラフィックは、85%が消し飛んだ。
動画編集のCapCutも、写真共有のLemon8も、ByteDance傘下のゲームMarvel Snapまでが道連れになっていた。
美容系動画で720万人のフォロワーを持つTikTokインフルエンサーのアリックス・アールは、停止の前夜にすでに泣いていた。
「失恋しているような気分だ」
「過去6年間、毎日投稿してきた。このアプリは、仕事以上のものだった」
「本当に胃が痛い。昨夜は泣きながら眠った」
「誰か精神病院に入れて」
居場所を失ったアメリカ人が殺到したのは、中国発のInstagram風SNS「小紅書(RedNote)」だった。
TikTokが消えた夜から2日で70万人超の新規登録を獲得し、アプリのダウンロードランキングは1位になった。
中国アプリの禁止から逃れ、別の中国アプリへ逃げ込む。
ハッシュタグは「#tiktokrefugee(TikTok難民)」で埋め尽くされた。
だがそれは13時間と少しの沈黙だった。
なぜ、こんなことが起きたのか。
それを知るには、13年前の北京に戻る必要がある。
第2章 10平米の部屋で語られたグローバル化
2012年3月、北京市海淀区・中関村。
知春路沿いの「金秋家園」というマンションの一室で、二人の男が新しい会社を立ち上げようとしていた。
張一鳴(Zhang Yiming)と梁汝波(Liang Rubo)。
二人は天津の南開大学でソフトウェアエンジニアリングを学んだ同期で、学生時代は同じ部屋で寝起きしたルームメイトでもあった。
卒業後は別々の会社でエンジニアとして働いていたが、張一鳴が不動産ポータル「99fang.com」を立ち上げたときに梁汝波を呼び寄せたのだ。
99fangは伸びず、畳むことが決まっていたのだが、張一鳴の頭の中では、すでに次のアイデアが動き始めており梁汝波は、そのアイディアにのることにしたのだ。
契約したのは140平米、4LDKのアパート。
そこに数十人のエンジニアを詰め込んだ結果、一室あたりは10平米前後にしかならなかった。
IKEAで買った折りたたみテーブルと椅子が並び、寝室が会議室に転用されていた。
張一鳴自身はこの時のことを「最大の部屋でも10平米しかなかった。でもアイデアは大きかった。小さなアパートでグローバル化を語っていた」と言っている。
だが初期メンバーの一人は、のちにこう回想している。
「出勤するのは、自分の住まいから友達の住まいに行くような感覚だった」
新しい会社を立ち上げようとしていたと言えば聞こえはいいが、張一鳴はすでにこの時点で3度の失敗を抱えていた。
2006年、張一鳴は旅行検索エンジン「酷訊(Kuxun)」に5人目の社員として入社。
1年で技術ディレクターにまで昇進し、2年目には40〜50人を率いる立場になった。
この実績を買われ、2008年、マイクロソフトに引き抜かれる。
そこまでは順調だったが米国流の堅苦しい企業文化が合わず、数か月で退職。
その後、中国版ツイッターと呼ばれたSNSスタートアップの飯否(Fanfou)に参加したが、このサービスも政治的理由で閉鎖。
そして結局たたむことになった不動産ポータル「99fang.com」だ。
4度目のスタートが、このByteDance——当時はまだ社名を確定する前——だった。
だが、張一鳴には、ひとつの確信があった。
「中国のスマホユーザーは、アプリで必要な情報を見つけるのに苦労している。人間が情報を探しに行くのではなく、情報のほうが人間を見つけに来るべきだ」
中国で最大の検索エンジン、百度(Baidu)のビジネスモデルは、検索と広告の組み合わせだった。
ユーザーが何かを調べ、その検索結果の上部に広告を挟む。
要はGoogleと同じ原理だ。
張一鳴はその仕組みの限界を見抜いていた。
スマートフォンの時代には、ユーザーはもう検索しない。
アプリを開いた瞬間から、興味のあるものが流れてくるべきだ。
2012年8月、ByteDanceは「今日頭条(Toutiao)」というニュースアプリをローンチ。
編集者がニュースを選ぶのではない。
AI(人工知能)のアルゴリズムが、ユーザーのクリック・スワイプ・閲読時間を分析し、一人ひとりに違うフィードを届けるというものだ。
そしてこれがたった4か月で、DAU(日次アクティブユーザー、1日に少なくとも1回アプリを使うユーザー数)は100万人を突破し、1年経つ頃には1000万人にまで膨れ上がったのだ。
この急成長を、中国のほとんどのベンチャーキャピタル(VC、未上場企業に投資する投資会社)は当初、見抜けていなかった。
張一鳴が資金調達のプレゼンをしても、多くのVCが「何の会社か分からない」と言って断った。
編集者が記事を選ぶのが常識の業界で、「アルゴリズムが選ぶ」と言われても実感が湧かなかったからだ。
最初に投資に応じたのは、フィラデルフィア郊外の金融系投資グループ、Susquehanna International Group(SIG)。
そしてもう一社——当初は断っていたセコイア・キャピタル(Sequoia Capital、シリコンバレーを代表するVCで、Apple・Google・WhatsAppに初期投資したことで知られる)が、2014年に入ってから1億ドルのシリーズB投資をリードした。
張一鳴はこの時点で、自分がどういう人間かをすでに分かっていた。
のちにCEO退任の社内メモで、彼はこう書いている。
「真実を言えば、私は理想的なマネージャーに必要なスキルのいくつかを欠いている」
「実際に人を管理することよりも、組織と市場の原理を分析し、管理業務を減らすことに興味がある」
「私はあまり社交的ではない。一人でいる活動、例えばネットを見たり、読書したり、音楽を聴いたり、何が可能かを考えたりすることを好む」
内向的で、人を動かすより仕組みを設計するほうが得意。
だからこそ、張一鳴には明確な経営の型があった。
「賢い人を雇え。そして自由を与えろ」
「Context, not control」——統制するのではなく、文脈を与えよ。
隔月のタウンホールミーティング(全社員が参加する対話集会)。
社内のオープンなコミュニケーション。
「CEO」や「ボス」と呼ばれるのを嫌う文化。
どれもシリコンバレーのトップ企業から借りた型だ。
北京の狭いアパートから始まった会社は、こうして走り始めた。
「アルゴリズムで情報を最適化する」——ビジョンは、ただそれひとつ。
そして、このアルゴリズムは4年後に別の名前で世界を踊らせることになる。
第3章 15秒の革命
2016年9月、北京。
ByteDanceが新しいアプリ「抖音(Douyin)」を世に出した。
中国語で「震える音」を意味する。
ユーザーが15秒から1分の動画を撮り、音楽に合わせて投稿する短尺動画系のアプリだ。
国内でも米国でも同種のアプリは何十種類と存在し、見た目の機能では差別化が難しい領域だったが、張一鳴たちが持ち込んだのは、新しいフィルターや撮影機能ではなかった。
ユーザーが何を最後まで見たか。
どこでスワイプしたか。
何に「いいね」を押したか。
その全てから学習し、次に流す動画を一人ひとり変える——ニュースアプリのToutiao(今日頭条)で4年間育ててきたレコメンデーションエンジンだった。
当時、他のSNSは「ソーシャルグラフ」の上に立っていた。
友達をフォローする、知り合いの投稿が流れる、という設計だ。
フェイスブックもツイッターもインスタグラムも、基本はこの思想の上にある。
抖音(Douyin)では代わりに「インタレストグラフ」を置いたのだ。
フォローではなく、興味が動画を流す設計だ。
誰もフォローしていなくていい。
アプリを開いた瞬間から、アルゴリズムが「あなたが好きそうなもの」を流してくる。
クリック、スワイプ、閲読時間、再生し直した回数——すべての行動がデータになり、次に表示させる動画が最適化される。
1年で、毎日Douyinを開くユーザーは200万人を突破。
しかし、張一鳴は国内だけでは満足しなかった。
彼の視線は、最初から中国の外にあったのだ。
2017年11月10日、当時米国の若者向けに人気になっていたMusical.lyを買収。
推定買収額は8億〜10億ドル。
これは賭けだった。
中国のテック企業が米国市場に直接参入しようとすれば、必ず文化と規制の壁にぶつかる。
百度も失敗した。
アリババも苦戦した。
テンセントの「微信(WeChat)」も米国では広がらなかった。
壁を越えられないなら、壁の向こう側にある会社を買ってしまえばいい。
張一鳴の答えは至極単純だったのだ。
2018年8月2日、Musical.lyはTikTokに統合されブランドは一本化された。
中国では「Douyin」、海外では「TikTok」。
技術は同じ、データは別々のサーバーに置かれた。
Tiktokの展開は異様に速かった。
ByteDanceは、TikTokの拡大に1日あたり300万ドル——年間換算で約10億ドル——を広告費として投下。
フェイスブックの広告枠、ユーチューブの広告枠、ゲーム内広告、どこにでもTikTokは現れた。
結果、TikTokは世界最速で10億ユーザーに到達したSNSになった。
フェイスブックが10億ユーザーに届くまでに8年かかったのをTikTokは5年で届かせたのだ。
更に2020年、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)が追い風になり、世界中のティーンエイジャーが、TikTokを使い始めたのだ。
米国ユーザーは1億7,000万人に達し、アルゴリズムと資本の両輪で、張一鳴は世界を手に入れたのだ。
しかし世界を手に入れたちょうどその瞬間、張一鳴は自国の政府の前で頭を下げなければならなかった。
第4章 アルゴリズムに党が入った日
2018年4月、中国・北京。
Musical.ly買収から5ヶ月。
国家広播電視総局——中国のテレビ・ラジオ・インターネット放送を監督する政府機関——が、ByteDanceに一本の通達を出した。
「ニュースアプリToutiao(今日頭条)を、3週間アプリストアから停止する」
そして4月10日さらに、追い打ちが来る。
ByteDanceのもう一つの人気アプリ「内涵段子(Neihan Duanzi)」の永久閉鎖までも命令したのだ。
内涵段子は、Toutiao(今日頭条)と並ぶByteDance初期の柱のひとつだった。
ユーザーが投稿するユーモア画像や風刺動画、ミーム(ネット上で流行する冗談素材)を共有するアプリで、中国国内数千万のユーザーを抱え、独特の俗語文化を育てていた。
しかし、
「低俗なコンテンツがインターネットユーザーの強い嫌悪感を引き起こした」
として当局は断じたのだ。
翌日、張一鳴は当局への謝罪文を公開した。
「一晩眠れず、罪悪感に苛まれながら深く反省した」
そして一行ずつ、自分の会社の根幹を差し出すような言葉が続く。
「コンテンツが社会主義核心価値観にそぐわないものであり、世論の正しい方向づけに不十分だった」
「習近平思想の徹底が不十分だった」
さらに、コンテンツ審査員——人間による投稿のチェック担当者——を現在の6,000人から10,000人に増員する。
党との連携も深める。
党の方針を自社アルゴリズムの設計に組み込む。
と続けた。
狙いは、ふたつ。
3週間停止中のToutiaoを戻すこと。そしてこれ以上の処分が降らないことだ。
しかしなぜこのような衝突が起きたのか。
ByteDanceの仕組みは、党の方針とそもそも噛み合わなかったからだ。
ByteDanceのアルゴリズムは、「ユーザーが見たいものを見せる」ために動いていた。
ユーザーの関心を最大化する——その一点だけを最適化する仕組みだ。
一方、中国政府の方針は逆だ。
「ユーザーに見せたいものを見せる」
社会主義の情報管理の原則である。
アルゴリズムが党の意図を外れて、勝手に流行コンテンツを拡散していく状態は、党から見れば情報統制が効いていない証拠だった。
2012年に発足した習近平政権は、国営メディアの発信力を強化する方向に舵を切っていた。
そこに台頭してきたのが、ByteDanceのようなアルゴリズムで動く民間プラットフォームだった。
衝突は、遅かれ早かれ避けられなかった。
張一鳴の選択肢は一つしかない。
頭を下げる。
この瞬間から、ByteDanceのアルゴリズムの上に党の基準が重ねられた。
表向きは「ユーザーが見たいもの」を流すが、その手前に「党が見せたくないもの」を除外する層が追加されたのだ。
ここから張一鳴の行動は、微妙に変わっていく。
国内で身動きが取れなくなった分、海外——特に米国——での成長に力を入れるようになった。
しかしその海外事業の拡大が、もう一つの超大国の注意を引き寄せることになっていく。
第5章 ファーウェイ級の脅威
2019年1月、ワシントンD.C.
ピーターソン国際経済研究所——米国の国際経済政策を専門に研究する民間シンクタンク——が、一本の報告書を出した。
TikTokとByteDanceを、「ファーウェイ級の問題」と位置づけたのだ。
ファーウェイ(Huawei、華為技術)は、中国の通信機器大手だ。
ファーウェイが世界の5G通信インフラを握れば、中国政府が世界中の通信を覗ける——米国政府はそう警戒した。
2018年12月、ファーウェイのCFO孟晩舟がカナダで逮捕され、翌2019年5月には米国のEntity List(米国企業との取引が禁じられる制裁リスト)に載せられたばかりだった。
その名前とTikTokを並べたことが、報告書の意味だった。
中国には2017年制定の国家情報法がある。中国企業は政府の情報要求を断れない。
張一鳴が中国で党の方針を受け入れた事実は、米国から見れば、ByteDanceが党のコントロール下にある企業である証明に他ならなかった。
TikTokはもう、若者向けアプリではなく米中対立の主戦場の一つになっていたのだ。
フロリダ州選出の共和党上院議員マルコ・ルビオ。
対中強硬派として知られる議員が2019年10月、対米外国投資委員会(CFIUS、米国企業への外国投資が安全保障に与える影響を審査する政府機関)に書簡を送り、2017年のMusical.ly買収をあらためて審査するよう要請した。
書簡には、2つの懸念が記されていた。
TikTokが香港民主化運動の映像を検閲している疑惑。
そして、米国ユーザーのデータが中国政府に流れる恐れだ。
買収当時、CFIUSには届出がなされていなかった。
当時、届出は任意であり、ByteDanceは届け出なかったためだ。
安全保障上のリスクは、公式に検証されないまま残っていたのだ。
年末、今度は軍が動く。
米海軍と米陸軍が、政府貸与の端末からTikTokを削除したのだ。
公用端末に中国製アプリが入っている状態は、情報管理上容認できない、というのが理由だ。
更に2020年7月31日、ドナルド・トランプ大統領がByteDanceに命じた。
「TikTokを米国企業に売却せよ」
45日以内にTikTokを売却するか、さもなくば米国での事業を禁止するというもので買収候補としては、マイクロソフトが手を挙げ、遅れてオラクルが参戦した。
この混乱の3ヶ月前、ByteDanceは新しいCEOをTiktokに迎え入れていた。
ケヴィン・メイヤー。
ウォルト・ディズニーでDisney+の立ち上げを指揮した大物幹部で、次期ディズニーCEOの呼び声もあった男だ。
就任した時点では、TikTokの経営はまだ地政学に巻き込まれていなかった。
しかし3ヶ月後、大統領令で売却を命じられた経営は、全く別のものに変わってしまっていた。
2020年8月26日、メイヤーは辞任する。
就任からわずか100日後のことだった。
辞任の手紙にはこうあった。
「ここ数週間、政治情勢が大きく変わるなかで、会社の構造変更が何を求めるのか、そして自分が引き受けた世界的な役割にとってそれが何を意味するのかを、深く考えてきた」
ディズニーの大物幹部ですら、地政学のプレッシャーには100日と耐えられなかったのだ。
辞任の2日後、8月28日。
米国の売却命令に対し、今度は中国政府がカウンターを放つ。
商務部と科学技術部が共同で「輸出禁止・制限技術目録」を改訂したのだ。
新たに制限対象に加わったのは、「パーソナライズド情報推薦サービスのデータ分析に基づく技術」。
TikTokの心臓部、レコメンデーション・アルゴリズムそのものだった。
中国政府の許可なしには、もう売却できない。
米政府は「売れ」と言い、中国政府は「売るな」と言う。
ByteDanceは、米中の板挟みに追い込まれたのだ。
9月27日、連邦判事カール・J・ニコルズが仮差止命令を出した。
その日の深夜から、TikTokは米国のアプリストアから消えるはずだった。
連邦判事は、その措置を発効直前で止めたのだ。
米国の司法が、大統領令にブレーキを踏ませたのだ。
2021年1月になるとバイデン大統領が就任し、6月にはトランプの大統領令を撤回。
こうしてTikTokは、ここで一旦の休息を得ることになる。
だがその休息もつかの間。
わずか1年後、2022年6月、米メディアBuzzFeed Newsが内部録音をもとにスクープを出した。
「ByteDance北京本社の従業員が、米国ユーザーのデータにアクセスしていた」
録音の中で、あるエンジニアは自分をこう呼んでいた。
Master Admin——全アクセス権限を持つ管理者、という意味である。
米国ユーザーのデータが、北京のオフィスから丸見えの状態だったと報じられたのだ。
2019年にルビオが書簡で警告した懸念が、ついに事実として現れてしまったのだ。
これを受けて同年12月。
FBI長官クリストファー・レイが公の場で警告した。
「TikTokには国家安全保障上のリスクがある」
2023年3月23日、ワシントンD.C。
下院エネルギー・商業委員会。
議会は、TikTokのCEOを証言席に呼び出した。
正面の証言席に、濃紺のスーツを着た40歳の男が座った。
TikTok CEOショウ・ジー・チュウ(周受資)。
背後の傍聴席は満席で、カメラのシャッター音が乾いて鳴り続けていた。
彼は一度だけ、マイクの位置を確認するように手を添え、それから議員たちの顔をゆっくりと左から右へ見渡し言葉を放った。
「TikTokには、世界で10億人以上のユーザーがいます。米国だけで1億5,000万人以上です」
「ByteDanceは中国政府の所有でも、支配下でもありません。民間企業です」
だが、議員たちは周受資の主張を受け入れない。
フロリダ州選出の共和党下院議員キャット・キャマックが、手元のノートパソコンを議場のスクリーンに接続させた。
議場のスクリーンに再生されたのは、銃を装填する映像だった。
キャプションには「3月23日、下院エネルギー・商業委員会での私」と書かれていた。
この日の公聴会の委員長、キャシー・マクモリス・ロジャース議員を標的にした、殺害予告動画だ。
動画は41日前にTikTokに投稿され、議場で再生されている今この瞬間も、削除されずに残っていたものだった。
再生が終わると、議場は数秒、静まった。
キャマックはマイクに顔を近づけた。
「1億5,000万人のアメリカ人のデータプライバシーとセキュリティを守れると、どうして信じられるのか。この部屋にいる人々すら守れないのに」
だが周受資は、視線を落とさない。
ノースカロライナ州選出の共和党下院議員リチャード・ハドソンが、技術について質問した。
「TikTokアプリが入ったスマホが自宅のWiFiネットワークに接続されている場合、TikTokはそのネットワークにアクセスしますか」
周受資は短く答える。
「インターネットに接続するためには、ネットワークにアクセスする必要があります。それが質問でしたら」
インターネット接続の基本的な仕組みだ。
この数秒のクリップは、その夜のうちにハドソン議員の質問を茶化すような内容でTikTok上に投稿され、数百万回再生された。
「TikTokは私のバッテリーにアクセスして電気を盗みますか?」
議会の技術リテラシーへの嘲笑が、TikTokのアルゴリズムに乗って世界中に拡散されたのだった。
カリフォルニア州選出の民主党下院議員アンナ・エシューは、周受資の「中国政府が米国ユーザーデータにアクセスした証拠は見ていない」という発言に噛みついた。
「それは率直に言って、とんでもない話だ」
テキサス州選出の共和党下院議員ダン・クレンショーも、皮肉を込めてこう付け加えた。
「ありがとう、チュウ氏。あなたは共和党と民主党を団結させてくれた」
普段は激しく対立する両党が、TikTokへの警戒だけは一致していたのだ。
証言時間は、5時間を超えていた。
その夜のTikTokでは、別の動きが起きていた。
ユーザーが周受資のファンカム——K-POPアイドルのような編集動画——を大量に作り始めていた。
議会の質問に冷静に答え続けた40歳のシンガポール人が、ティーンエイジャーたちの中では「英雄」になっていたのだ。
シンガポールのウェブメディアMothershipでも大々的に取り上げられた。
“TikTok CEO Chew Shou Zi, like, absolutely ate at his US Congress hearing”
(TikTokのCEOチュウ・ショウ・ジー、米議会公聴会でマジ圧勝)
しかしプラットフォーム上で英雄になることと、議会を説得することは、また別の話だった。
2024年4月24日、バイデン大統領は「外国敵対者が管理するアプリケーションからアメリカ人を保護する法律(PAFACA法)」に署名。
上下両院の超党派で可決された法律で、9ヶ月以内にTikTokを売却しなければ、米国内での配信は禁止されるというものだった。
期限は2025年1月19日——次の大統領就任式の前日に設定されていた。
第6章 13時間のブラックアウト
PAFACA法の署名を受けて、TikTokは米連邦裁判所に訴える。
「法律は言論の自由を保障する憲法修正第1条に違反する」
しかし連邦控訴裁判所で訴えは退けられ、訴えは最高裁にまでもつれこむ。
だが最高裁でもその訴えは退けられてしまう。
判決は全員一致。
PAFACA法は合憲。
TikTokの売却または米国内停止は、1月19日に発効することになった。
最高裁での判決があった1日後の1月18日。
バイデン政権は執行判断を次の政権に委ねると声明を出し、翌々日の20日にバイデンは大統領を退任。
しかし、声明はあくまで「バイデン政権は執行しない」と言ったに過ぎない。
法律そのものは、1月19日から予定通り発効する。
違反すればアップル、グーグル、ByteDance——米国でTikTokを提供する企業すべてが、巨額の罰則を負うリスクを抱えた。
1月18日、土曜日。
夕方、米国東海岸のユーザーがアプリを開くと、見慣れたフィードの手前に、灰色のバナーが一枚挟まっていた。
「明日からサービスが使えなくなるかもしれません」
スクロールすればあっけなくその文字は消えてなくなった。
動画も、いつも通り流れていく。
だが午後10時30分
その「いつも」は突然止まる。
ByteDanceは売却を拒否。
TikTokは米国でのサービスを自主的に停止したのだ。
しかも停止したのはTiktokだけではない。
CapCut、Lemon8、Marvel SnapなどByteDance傘下のアプリ群が、まとめて止まったのだ。
しかしその夜にドナルド・トランプ次期大統領が動く。——次期大統領選で立場を180度転換し、自らTiktokアカウントを解説。「Tiktokを救う」と訴えて若年層ユーザーを味方につけていたのだ。
2020年にByteDanceに売却命令を出した就任目前のトランプは自身のSNS「Truth Social」でこう投稿した。
「月曜日に、法律の禁止が発効する前の期間を延長する大統領令を出すつもりだ」
そして1月19日、日曜日の正午にTikTokはひっそりとサービスを再開した。
13時間余りのブラックアウトの後だった。
アプリ内のメッセージは、短い文章に書き換えられていた。
“We are in the process of restoring service. Thanks to President Trump”
(ありがとう、トランプ大統領——と。)
トランプ大統領はBytedanceに75日間の執行猶予を与える大統領令に署名した。
さらに司法長官パム・ボンディが、アップルとグーグルに一通の手紙を送る。
TikTokをストアで復活させても罰則は問わない、という保証内容だった。
議会が可決し、大統領が署名した法律を、次の大統領が一通の手紙で事実上無効にした。
ある法学者は、これを「これまでで最も広範な大統領権力の主張」と評した。
しかしこれは、まだ暫定処置に過ぎなかった。
執行猶予75日。TikTokは生きながらえた。
ただし、売却問題そのものは解決していなかったのだ。
第7章 踊り続ける場所
75日間の執行猶予は、何度も延長された。
2025年12月18日、TikTokから一つの発表が出る。
発表の主な内容はこうだ。
- 米国事業を運営する合弁会社「TikTok USDS」(”U.S. Data Security”、米国データ管理を担う新会社)を設立
- Oracle、Silver Lake、MGXの3社と拘束力のある合意書に署名
- 正式クロージングは翌年1月22日
合弁会社の株式配分は、次の通り。
- 新規の米系・中東系投資家:計50%
- オラクル(米データベース大手):15%
- シルバーレイク(米投資会社):15%
- MGX(アブダビの国有投資会社):15%
- その他の新規投資家:5%
- 既存のByteDance投資家(Susquehanna、米PE大手KKR、米成長投資ファンドGeneral Atlanticら):30.1%
- ByteDance本体:19.9%
ByteDance本体の持ち分は、20パーセントを割り、取締役会は7人中過半数が米国人。
そしてByteDanceは米国ユーザーのデータにアクセスできず、アルゴリズムの改変にも関与できない仕組みになっていた。
6年にわたる米中のアプリ戦争は、ここで終わった。
所有権も、経営の実権も、データの管理も。
すべてが米国側に移ったがTikTokは生き残ったのだ。
ただし、もう「ByteDanceのTikTok」ではなかった。
この合意が発表された時、創業者の張一鳴はもう表舞台にはいなかった。
彼はすでに4年前の2021年11月にCEOを退任しており後任は、創業パートナーで大学のルームメイトだった梁汝波だった。
メモの中で張一鳴は、梁のことを「かけがえのないパートナー」と書いている。
そして経営、組織化、社会的関与の強みがある。
自分には欠けている部分を持っている、と。
退任前の2021年3月。
ByteDanceの全社集会で、張一鳴は自らの哲学を語っていた。
テーマは「平常心(Ordinary Mind)」
「誰でも——あなた自身も含めて——普通の人間だ。偉大なことを成し遂げる人は、しばしば非常に普通のメンタリティを維持している」
肩書きや規模のラベルが、思考を制約する——と彼は続けた。
「エグゼクティブ」というラベルは、基本的な質問をすることを妨げる。
「大企業」というラベルは、戦略的な思考を制約する。
競合企業についての言い方も、以前とは変わっていた。
「worthy opposition」——敬意に値する対戦相手——と呼んだ。
彼はマイクロソフトの例を引いた。
グーグルを倒すことに執着した結果、クラウドコンピューティングの台頭を見逃した——敵を倒すことに熱中すれば、別の重要な変化を見逃す、と。
そして最後に、中国の起業家の間で繰り返し引用される一節を紹介した。
「自分のエゴを、原子の大きさまで縮めろ」
元々は外食配送大手・美団(Meituan)の創業者、王興(Wang Xing)の言葉だ。
その2ヶ月後の5月、張一鳴はCEO退任を発表。
会社の50パーセント以上の議決権は維持したまま、表舞台からは消え2024年に彼は中国一の富豪になった。
張一鳴が去った後も、ByteDanceは動き続ける。
2023年、AIチャットボット「豆包(Doubao)」をリリース。
2026年春節(中国最大の祝日である旧正月)の期間に、日次アクティブユーザー1億人を超え中国AIチャットボット市場で首位に立ったのだ。
さらに2026年2月、テキストや画像から動画を生成するAI「Seedance 2.0」を発表。
独立系の性能ランキング・Artificial Analysis Video Arenaで、テキストから動画の部門で1位——Google、OpenAI、Runwayのモデルを抜いたのだ。
現CEOの梁汝波は、社内集会でこう語る。
「AIはウェブ検索よりもさらに重要なアプリケーションになる」
2012年、北京の10平米の部屋で、張一鳴は「AIで情報を最適化する」と考えていた。
Toutiaoは、その最初の答えた。
DouyinとTikTokは、それを動画に広げた答えた。
そしてDoubaoとSeedanceは、同じ思想を「文章の生成」「映像の生成」に延長した、最新の答えになった。
13年前に始まったアルゴリズムの実験は、形を変えて続いている。
おわりに
13年前、北京の10平米の部屋で、張一鳴はひとつの仮説を立てた。
「アルゴリズムは、人間の興味を理解できる」
Toutiao、Douyin、TikTok——仮説は、ひとつずつ実証されていった。
しかし同じアルゴリズムが、米中両政府の警戒を引き寄せる。
中国では、党の基準がアルゴリズムの上に重ねられ、米国では法廷と議会と大統領令の舞台で6年間争われ、TikTokの米国事業はByteDanceの手を離れた。
しかし、彼が10平米の部屋で立てた仮説は、いま生成AIとなって、次の戦場へ向かっている。
筆者あとがき
この記事を書きながら最も印象に残ったのは、張一鳴という男の「退き方」だった。世界最大の非上場テック企業を作り上げた後、60歳でも50歳でもなく38歳でCEOを降り、以降は一切の公の発言を避け続けている。引用した「自分のエゴを原子の大きさまで縮めろ」という言葉は、この規模の会社を作った創業者からは通常出てこないものだと思う。TikTokの命運は政治に握られたが、彼自身の人生は、すでに別の場所にあるのだろう。
《参考資料》
Wikipedia (ByteDance / Zhang Yiming / TikTok ban in the United States / Shou Zi Chew / Kevin Mayer / Musical.ly / Neihan Duanzi), Forbes, SCMP (South China Morning Post), CNN, NPR, Axios, Bloomberg, Time, Variety, TechCrunch, Fortune, The China Project, CNN Money, TechNode, China Digital Times, China Media Project, Peterson Institute for International Economics, Oxford Economics, Sacra, Statista, Sherwood News, Interconnected Blog, KR-Asia, Al Jazeera, Source Code Capital, 36Kr, Deadline, CNBC, Mothership, CKGSB, Harvard Digital Data Design Institute, TechWire Asia, Digital Journal, Tekedia, PBS, BuzzFeed News, Truth Social, Artificial Analysis, TikTok Newsroom, Tom’s Guide, TechPolicy.Press, The Blast, Yahoo News, Later Blog, Dexerto, Tech Times, Must Share News, FOIA lawsuits
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wata9488
フリーライターとして活動しています。 東京在中AI中毒末期。Claude CodeとCodexに人生をささげてます。




























