【主な登場人物】
主人公:ヘンリー・ウェルズ
ウィリアム・G・ファーゴ
俺はアメリカ・バーモント州テットフォードにある教会の牧師の家に生まれた。父親が牧師だったため、家にはいつも人がいたし、色々な悩み相談をしていた。だけど俺は、父親と同じような牧師にはなりたいと思わなかったので、1822年16歳になった時にニューヨーク州パルマイラへ行き、革なめしと靴の職人見習いとして働き始めた。この地には、俺のことを知らない人ばかり、というのが良かったのかもしれない。
実は生まれた時から深刻な吃音(きつおん)症だったため、周りから「吃音のウェルズ」と呼ばれてバカにされていた。それが嫌だった。だけど、どうやって治せばいいのかが分からない。それなのに子どもというのは、自分と違う人に対して正面から侮蔑してくる。それを言われた方は、どう感じるのかなんて考えずに。俺は「吃音のウェルズ」と言ったやつらのことは全員覚えているし、きっと一生許す事はないだろう。
職人見習いになると、嫌味を言われる時は「吃音」と侮蔑されるけど、それ以外の時に言われなくなったことは救いだった。それでも一生このままでいいとは思っていない。周りから散々イジメられてきたということもあって、自分に自信を持つことができないでいるし、他の人みたいに、つっかえずに言葉を話せる人間になりたいからだ。
そんな俺が18歳の時、吃音のことに詳しいかもしれない人を見つけることができた。その人はニューヨーク州ロチェスターで言語療法士(スピーチセラピスト)をしていた。早速その人に会いに行き、発音や呼吸のコントロールを学んだ。そうすると、完全に治ったということはなかったが、以前と比べるとだいぶストレートに話をすることができるようになった。
(そうか、吃音は自分でコントロールができるということだな)
俺はそれが分かっただけで未来は明るい気がした。それから20歳を過ぎた頃、俺は靴職人見習いではなく職人になり、その仕事が落ち着いてきてから吃音者のための学校の経営と運営も同時にし始めた。
世の中には、俺みたいな吃音者は意外と多い。そして、吃音者のほとんどが、自分の話し方を少しでも改善させたいと思っている。だったら俺が先生の下で教わったことを、自分なりの解釈で伝えていきたいと思ったからだ。
だけど――
「ウェルズは吃音が完全には改善していないよね? それなのに、この学校を運営しているのっておかしくない?」
一部の生徒からそう言われ、徐々に生徒は減っていった。それでも、15年は吃音者のための学校を経営することはできた。
そして、31歳になった時、吃音者のための学校も靴職人もすっぱりと辞めて、新しいことを始めることにした。吃音の学校は経営難に陥っていたし、他のことをやらざるを得なかったともいえる。だがそんな時に目に留まったのが、エリー運河だ。1825年に全通したエリー運河は、東海岸のニューヨーク市と未開拓だった西部の五大湖地域を水路が直結し、アメリカの物流を根底から変えていたからだ。
俺は早速ニューヨーク州のバッファローへ向かった。そこは運河の終着点になっていたし、五大湖へ抜ける西への玄関口にもなっている。その結果、人・モノ・金が押し寄せる全米屈指の急成長都市になっていたのだ。
「これはすごい! ここなら俺でも……!」
そんな中で俺が選んだ次の職は、運送代理人。この仕事は学歴不問だし、流暢なスピーチも必要ない。必要なのは泥臭い交渉力と、確実なスケジュール管理、荷主からの絶対的な信頼だ。俺はまだ完全に吃音を治し切れてはいないが、180㎝を超える大柄な体格に対して、フレンドリーな性格の持ち主だと言われることが多く、接客において、相手から苦情を言われたことはない。むしろ、すぐに相手と仲良くなれる性質を持っている。だから、靴職人のように工房にこもって作業をするのは、何か違うと思っていたというのもある。事業としては失敗に終わった吃音学校だったけど、そのことに気付けたのはあの学校があったからだ。
「よし、この業界で俺はやり抜いてみせる!」
これが俺の運送人生の本格的なスタートとなった。
運送代理人として、おこなっていたことは主に3つ。1つ目は、商人や農家から農作物や木材、工業製品などの荷物を預かって、それをどの船に乗せて運ぶかを手配する仲介業務。2つ目は船の運航スケジュールを把握して、渋滞や水門の通過待ちの時間、天候による遅延などを計算しながら、目的地に届ける段取りを組むこと。3つ目は、ただ雇われのエージェントとして働くだけではなく、自分の運送ビジネスも同時に行うようにしたこと。安い運賃に設定して、顧客を開拓し、徐々に貨物ラインを広げた。
「ここで働いてみて5年が過ぎたが、やはりインフラには限界があるな……」
俺自身、限界があると感じたのは、冬になると運河の水面が凍結し数カ月間完全に運送ができなくなるという問題があったからだ。
「そういえば最近は鉄道というものができて、あちこちの大陸を走っていると聞くが……水路と陸路を組み合わせた輸送を考えてみるのもいいかもしれない」
俺は、このバッファローという拠点がいかに重要なのかということも、肌で感じていた。ここで働いていると、東部で作った重要書類や現金を、これから発展する西部にいかに早く届けられるのかと聞かれることが多かったからだ。
1841年、そんな俺に声をかけてくる人物がいた。それは、その年にアメリカ初の運送会社を作ったウィリアム・ハーンデンだ。
「やぁやぁ、君がウェルズだね?」
「……そうですけど、あなたは?」
「ハーンデン社をご存じで?」
「あぁ、最近できたばかりの会社ですね」
「そう。そこで今、優秀な人材を探していてね。ウェルズ、うちでオールバニ支局長をしてみないか?」
「えっ!?」
思わぬ申し入れに、俺は引き受けることにした。何せ、これまでの水路だけでの運搬ではなく、蒸気機関車を使った方法を取り入れていたからだ。ハーンデンは元々鉄道の駅員をしていたということもあり、蒸気機関車のノウハウもある。そしてもちろん、川を渡るルートの場合はスチームボートも併用して水路も使う。マルチ運送をするという話を聞き、これは勉強になるのではないかと思った。
(これは良い人に声をかけてもらったかもしれないな)
ハーンデン社での仕事は、とても刺激的なものだった。蒸気機関車を使って運搬をするということは、こういうことなのかということを存分に勉強できたからだ。そして、ハーンデン社での仕事も1年が過ぎた頃、新しい人材を入れるため面接をすることになった。
「ウィリアム・G・ファーゴです。前職は食品店を経営していましたが失敗し、新しい仕事をと思い応募しました」
「食品店と運送エージェントでは全く別の分野ですが、どうして興味を持たれたのですか?」
「一言でいうと、可能性を感じたからです。運送はどの職種であっても関りがあります。つまりそれだけ顧客が多いということ。この業界はこれからまだまだ伸びると思っています」
俺はその言葉に共感した。そして、まだ一度も運送エージェントとして働いたことのないファーゴを雇うことにした。ファーゴと一緒に働くようになり、彼の有能さに感心するばかりだった。経営者という立場だったというだけのことはある。私は、さらにハーンデン社で進路開拓をし始めた。
しかし、ハーンデンはボストン~ニューヨーク、ヨーロッパとの国際輸送ばかりを重要視する人だった。だから俺がいくら「これからはバッファローやシカゴなどの未開拓地である西部にルートを広げるべきだ」と言っても聞いてはもらえなかったのだ。
「そんなに言うなら、俺は俺の道を進む。俺はやはりバッファローより西のルートを開拓すべきだと思うから」
そうハーンデンに伝え、会社を辞めて独立する道を選んだ。それが1844年だ。つまり、ハーンデン社には3年いたことになる。ハーンデン社は決して悪くない会社だったし、陸路を活用しているところがやはり素晴らしいと思った。しかし、社長と話が合わないのであれば一緒にはいられない。俺は俺の思う道を選ぶことにした。
独立をし、俺はウェルズ社を設立した。だが一人で立ち上げたわけではない。ファーゴと実業家のダニエル・ダニングの二人と一緒にだ。ウェルズ社ではハーンデン社がやらなかったバッファローより西をカバーする独自の急行運送をすることが、一番の目的としている。だが、それは思ったよりも簡単なことではなかった。なぜなら、陸路を使うといっても、バッファローより西にはまだ鉄道網が一切開通していなかったからだ。未舗装の道路さえある場所を馬車で運搬したり、五大湖を蒸気船で運搬したりしていた。運ぶものは金や銀、重要書類。それを安全に運び続けるということは、生半可なものではない。
「すまん。俺はもう無理だ……」
想像以上に過酷な現場とリスクがある仕事に、ダニングは1年で退職を申し出た。まだこの事業が本当に上手くいくか分からない状況だったというのも大きいだろう。俺とファーゴは、無理に引き留めるということはしなかった。
「ファーゴ、俺はまだまだ続けるが、お前はどうだ?」
「ふん、誰に聞いているんです? どんなことがあっても私はやり遂げますよ」
「さすが、相棒だ。ここからはさらに攻めの経営をしていくぞ」
俺とファーゴは、どんなことがあっても戦い続けるという意志を固め、自分たちのやりたいことを止めなかった。それどころか、政府にケンカを売るような商売を始める。
当時、郵便局は手紙を1通送るのに25セント(当時の労働者の数時間分の賃金)もかかっていたが、俺たちは1通6セント(その後さらに下げて5セント)にし、郵便局よりも早く届けるサービスをした。さらに郵便局とは別の自社専用の格安切手を発行し、顧客を囲い込んだ。
国家の独占事業を脅かされたアメリカ政府は激怒し、何度も告訴してきた。メッセンジャーが逮捕されたり、勾留されたりすることも日常茶飯事だ。だが、保釈金を積んで即座に業務を再開し、その日のうちに再び配達に向かわせるということをした。さらに新聞広告などで、「政府は高くて遅い。ウェルズは安くて速い。市民の味方はどちらか」という文言を載せ、市民だけでなく、裁判官すらもウェルズ社を応援するようになり、政府は力づくで俺たちを潰すことができなくなった。その結果、1845年に政府は郵便料金を大幅に引き下げる法改正をしたのだった。
法改正後は郵便局との価格競争をするのは辞めて、バッファローより西の中西部に向けての、どこよりも早いインフラ拡大に本格的に取り組んだ。しかし、1846年になり、この中西部ルートだけで本当にいいのか? という疑問を持ち始めた。どうも時代はそちら側だけではない気がしてきたからだ。
「なぁ、ファーゴ。俺は東部に行こうかと思っている」
「は? 何でですか!? あなたもこの中西部が怖くなったからとか、いいませんよね?」
「違う。だけど、これから東部でも時代は来ると感じたんだ。ここの経営はウィリアム・リビングストンという男に株を売ろうと思う。ファーゴがここに残るなら、社名に名前を入れて共同経営者にすることを条件に交渉する。ファーゴはどうしたい?」
「……中西部ルートは私が現場の指揮を執ってきた場所です。私はこの場所の開拓から手を引きたくありません」
「わかった。俺は東部を必ず統括する。だからファーゴは必ずこの中西部を統括しろ。その先でまた縁が繋がることもあるだろう」
「……えぇ、そうですね。あなたは言ったことは必ずやり遂げる男だと知っています。この先の未来で道が繋がることを願っています」
こうしてウェルズ社は「リビングストン・ファーゴ社」という社名に変わった。そして俺はというと、ニューヨークに拠点を置き共同経営者にウィリアム・リビングストンの兄弟であるクロスフォード・リビングストンを選び「リビングストン・ウェルズ社」を作った。しかし1年後の1847年にクロスフォード・リビングストンが亡くなったため、俺はこの機に、ファーゴたちと一緒に作った会社を再編し、ウェルズ社(東部急行)を作ったのだった。
東のウェルズ、西のファーゴと呼ばれ、運送業界を牛耳っていったが、1849年。元々ニューヨーク州で馬車や内陸輸送のビジネスで大成功を収めていた実業家、ジョン・バターフィールドが運送業界に参入してきたのだ。これによって、俺たちは激しいシェア争い、値下げ合戦がはじまり、過酷な経営状況に追い込まれて行った。そんなある日……。
「こんなところに、俺とファーゴを呼び出して、何の用があるんだ?」
俺は目の前にいるバターフィールドを睨みつけた。
「落ち着いてくれ、ウェルズさん。俺は喧嘩をするために呼んだんじゃない。これ以上の競争は不毛だ。お互いの命を削るだけだと言いに来たんだ」
「そうだろうな。だが、俺たちは折れる気はないぞ」
「わかっている。だから、俺たち3人で会社をまとめてしまわないか」
「え?」
「合併するんだよ、3社で!」
これがアメリカン・エキスプレスができた瞬間だった――
⇒後編に続く
【参考資料】
Britannica Money (Encyclopædia Britannica)
Smithsonian National Postal Museum
Wikipedia (Henry Wells / Wells Fargo の歴史項目)
Cambridge University Press (Business History Review)
Wells Fargo History (公式アーカイブ・関連史料)
この記事を書いた人
岩本和代
2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。





























