目次
第1章 80歳、自分を消す発表
2026年4月24日、金曜日。
大阪市東淀川区、新大阪エリアにあるキーエンス本社から、短い発表がされた。
取締役・滝崎武光の退任。
退任は滝崎武光本人からの申し出によるものだった。
株主総会の決議は、同年6月12日に行う。
会社側からの惜別の言葉はない。
本人のコメントもない。
半世紀の歴史を振り返る付録もついていない。
発表文は短く、事務的で、創業者を送り出すために組まれた文章とはとても思えないものだった。
この時、滝崎は80歳。
1945年6月10日、兵庫県芦屋市で生まれ、1972年3月にリード電機を始めて以来、54年にわたってキーエンスの中心にいた人物である。
この発表後も名誉会長としては残るが、取締役会の議決権からは外れる。
同じ年度、キーエンスは過去最高益を更新していた。
2026年3月期、売上高1兆1,692億円、営業利益5,957億円。前年比でそれぞれ(売上)10.4%、(営利)8.4%の伸びである。
創業者が役員の席から消えても、業績の数字は何ひとつ変わらない。
滝崎が創業当初から繰り返し言ってきた言葉がある。
「自分はカリスマではない。自分がいなくても会社が回るようにずっと考えてきた」
2023年4月、日経ビジネスの取材に応じた際にも、彼はこう言っている。
「会社は自分の子供みたいなものだと口にする創業者がよくいる。だが自分にはそういう気持ちは全くない。いつ引退するかも、きちっと決めている。自分の息子に継がせるつもりもない」
2026年4月24日の発表は、半世紀かけて設計してきた「自分のいない会社」が完成したことを確認する作業だったというわけだ。
その完成図の起点は、50年以上前の、兵庫県のある工業高校の教室にある。
第2章 イデオロギーは好き嫌いの世界だ
1960年代前半。兵庫県尼崎市、県立尼崎工業高等学校。
電気科の教室に、18歳の滝崎武光はいた。
当時の日本は学園紛争の真っただ中。
「高校時代は学園紛争花盛りで、私も運動を指導する立場だった」
後年、本人は日経ビジネスの取材でそう語っている。何の運動だったかまでは、本人も具体名を残していない。
滝崎は、その運動の現場で、何度も同じものを目にしていた。
理念のうえでは美しいスローガンが、実際の対立の場面ではただの好き嫌いに還元されていく。誰が誰を支持するか、誰と誰が合わないか。そういう感情論の積み重ねが、議論の中身よりも強く運動を動かしていた。
彼はそこから、一つの結論を引き出す。
イデオロギーは好き嫌いの世界だ。理念で人は動かない。
この結論は、彼自身の人生の方向を決めることにつながる。
理念で勝負することをやめ、数字で勝負できる事業家を目指す。
高校時代に滝崎は、自分の経営哲学の原型を手にしていたのだ。
理念ではなく数字、人格ではなく仕組み。
この組み合わせが、後のキーエンスのすべての制度設計を貫くことになるのだった。
第3章 二度、潰す
1964年3月、滝崎は尼崎工業高校を卒業。
翌4月、彼は外資系のプラント制御機器メーカーにシステムエンジニアとして就職する。
オートメーション化された工場の機械を、計器とプログラムで制御する──プロセス制御の仕組みを作るのが彼の担当だった。
同時にこの頃から滝崎は、フォードやIBMなどの経営本を独学で読み漁っていた。
最初から、独立を前提に企業に身を置く若手だったのだ。
1970年頃、最初の起業に踏み切る。
電子機器を製造する会社だった。
しかし、資金繰りと販路の確保がうまくいかず、この会社は倒産してしまう。
その後、数年でまた新たに企業する。
今度は電子機器組立の下請けだった。
しかし、これも採算が合わずに潰れた。
滝崎は20代で2度会社を倒産させたのだった。
しかしただでは転ばない。
二度の倒産から、彼は二つの教訓を引き出す。
三度目は、絶対に潰してはならない。
そして、潰さないためには、借金をしない経営にする必要がある。
さらにもう一段先。
会社が続くためには、社員にも取引先にも、関わる人すべてに何らかのメリットが残らないといけない。
これが、まだ存在しない三度目の会社の、最初の設計図だった。
具体的な事業も製品も本社の場所も決まっていない段階で、彼は「どんな会社にしたいか」と「どんな会社にするか」の輪郭をすでに持っていた。
第4章 伊丹のリード電機と、トヨタの金型
1972年3月、兵庫県伊丹市。
26歳になった滝崎は、ここで個人事業としてリード電機を開業する。
三度目の起業である。
最初の製品は、電線メーカー向けの自動線材切断機。
電線工場のラインの末端に置く装置で、リールに巻かれた銅線や被覆電線を、設定した長さに測って、自動で切り落とす。
当時はこの工程を、手動カウンタと足踏みカッターで職人が処理するか、油圧式の大型自動機を据え置きで使うか、どちらかが普通だった。
それを滝崎は、測長と切断のタイミング制御を、機械式のカウンタから電子回路に置き換えたのだ。
5年以上、電子制御で工場の機械を動かすシステムを書いてきた人間である。
計測と制御を電子化すれば、装置は機械式の自動機より一回り小さくできる。
派手さはない。
電線工場の作業台に置かれて、長さをそろえて切るだけの、地味な装置である。
しかしこれを機に古河電工や住友電工――いずれも尼崎周辺に工場を構える電線御三家のうちの2社が、初期の顧客になってくれたのであった。
翌1973年、滝崎はトヨタ自動車のプレス工程に目を付ける。
当時、自動車のプレス加工では、金属板が二枚重なって機械に送られてしまうという事故が頻繁に起きていた。
一度発生すれば金型が破損し、ライン全体が止まってしまう。
滝崎はこの現場の課題を分析し、交流磁界を応用した「金属板二枚送り検出器」を開発。
1台8万5,000円で売りにだした。
翌1974年、その検出器はトヨタ全工場に採用される。
さらにその後、日産、三菱、ホンダにも広がっていくことになるのであった。
これが、滝崎の商売の型になる。
営業に行く前に、現場の困りごとを調査し先に引き取る。
顧客が「こんなものが欲しい」と口にする前に、解決策の形にして相手の机に先に置いてしまうのだ。
中小製造業の若い会社が、トヨタや日産といった大手の門をくぐるには、これしかなかった。
価格でも、納期でも、人脈でもない。先回りこそが滝崎の武器だった。
1974年5月27日、兵庫県尼崎市。
滝崎はリード電機を株式会社として法人化した。
28歳の誕生日の2週間前であった。
法人になったその日、滝崎はもう一つ、当時の中小製造業からは考えられない常識から外れた方針を口にした。
「直販一本でやる。商社にも代理店にも卸さない」
理由は単純だった。
リード電機が作っている製品は他社にない仕様の製品である。
商社や代理店を通せば、伝えるべき内容は中継のたびに薄まる。
何のために作った装置なのかが、肝心の現場に届かない。
価値を顧客の手元まで運ぶには、自分たちで運ぶしかない――そのためだ。
1972年3月に伊丹の個人事業として始まったリード電機は、こうして1974年までの2年間で、二つの軸を確立させていく。
顧客の現場課題を先回りすること。
そして、それを直接顧客に届けること。
半世紀後には本社が新大阪に移り、社名がキーエンスに変わり、創業者までもが役員席を降りることになるが、その後も、この二本の柱だけは、ほとんど同じ形で残ることになる。
第5章 祖業を、自分の手で抜き取る
1982年、創業から10年目。
線材切断機事業は、年間売上10億円規模、営業利益率20%超の安定した事業に育っていた。
中小企業としては、十分に成功した祖業である。
しかし滝崎は、この祖業を売却する判断を下す。
理由は単純だった。並行して育ててきたセンサー事業の利益率が、すでに40%近くに達していたからだ。
線材切断機の倍に近い数字である。
経営資源を分散させず、より高い利益率を取れるほうに全部寄せるというわけだ。
祖業を売った滝崎は、その後も、会社の中身を入れ替えていく。
米国に拠点を作り、子会社を作っては製造機能を抜き、新しい社名を作っては古い名前を消す。
そうして順調に利益をあげていきながら1985年3月、米国に最初の海外拠点 KEYENCE CORPORATION OF AMERICA を設立。
海外にも最初の足場を置いたのだ。
もちろん内側もおろそかにはしない
同年9月、製造子会社のクレポ株式会社を作り、自社で抱えていた製造機能をそこに移した。
そのうえで製造ノウハウを仕分ける。
中核の技術の約25%は自社に残し、残りの75%は外部の協力会社に回す。
本体に工場を持たない──いわゆるファブレス体制への、本格的な切り替えだった。
翌1986年10月、社名を「リード電機」から「キーエンス」に変える。
KEY of SCIENCE の頭文字を取った造語である。
1982年から1986年までの5年弱で、滝崎は会社から3つのものを入れ替えた。
祖業、自社工場、そして創業時の社名である。
第6章 株価日本一の年に、化石を飾る
1987年10月、キーエンスは大阪証券取引所の第二部に上場する。
公募増資による調達額は約200億円。
更に2年後の1989年12月には、東京証券取引所第二部に上場し、翌年には東京・大阪両市場の第一部に上場する。
1991年、キーエンスの株価は国内首位水準に到達。
普通であれば、創業者がメディアの取材に応じ、株価日本一を宣伝してもおかしくない局面である。しかし滝崎は、違う動きをした。
日経ビジネスの取材に応じた彼は、株価の話をほとんどせず、20年以上前の高校時代の学園紛争の話と、そこで「数字で勝負することにした」という転向の話だけをして去るのだ。
イデオロギーは好き嫌いの世界だ――あの一文は、この時の彼の口から出たものとして記録されている(掲載号は1991年6月号・1989年5月号で諸説あり)。
1994年8月、本社・研究所が新大阪エリアに移転・竣工する。
地上21階、高さ約111メートルの新本社である。
新本社のロビーから館内の各所まで、滝崎はアンモナイトの化石をいくつも飾った。
化石を飾った意味について、彼が外部に向けて初めて口を開いたのは、9年後である。
2003年10月、日経ビジネス誌は彼の特集を組む。
タイトルは「会社に思い出は不要」
誌面で滝崎は、こう語っている。
「付加価値を生み出すのは技術やサイエンス。過去ではありません。本社ビルに化石のオブジェを置いてあるのも、変化に対応していかなければ化石になる、というメッセージです。キーエンスに過去は不要です。ですから社史も作りません」
上場と株価日本一という、普通の創業者であれば「成功の物語」を語る局面で、滝崎は逆に、過去は不要と語る。
滝崎武光という男がなぜ成功したのか。
そんな本質が垣間見えるやりとりであった。
第7章 自分がいなくても回る仕組み
2000年12月、55歳の滝崎は、社長の座を譲り代表取締役会長に退く。
後任の社長には、同族でも創業メンバーでもない明治大学政経学部卒の佐々木道夫(43)が就いた。
創業以降はじめての社長交代だった。
滝崎というカリスマが社長を降りてもしっかりと仕組みは引き継がれていく。
キーエンスの営業担当者は、1日5件以上の顧客訪問アポイントが組めなければ、外に出てはいけない。
朝一番のアポイントは8時30分までに入れる決まりで、それ以降になるときは理由を書面で報告する。
外に出たら、外報──外出報告書を書く。
顧客先への到着時刻、入室時刻、プレゼンの終了時刻、退室時刻、移動開始時刻。
すべて分単位で記録する。
社用車のETCゲート通過記録は本社に自動送信され、外報の数字と照合される。
ズレがあれば、即座に発覚する仕組みだ。
虚偽記載は降格対象。
監査部門が抜き打ちで顧客先に電話を入れて、訪問内容と評価を裏取りすることもある。
営業担当者がサボれないだけでなく、サボれないことが組織の前提として固定されているのだ。
もちろん、管理を厳しくするだけでは利益は上がらない。
開発の入口にも、別データの流れがある。
営業担当者は毎月最低2件、ニーズカードを提出する。
顧客の工場を回るなかで気付いた「顧客自身がまだ言語化していない課題」を、書式に落として開発部門に渡すというものだ。
提出が滞れば人事評価に響き、有益な情報を持ち帰れば報奨金が出る。
新製品の企画は、ほぼすべて、ここから始まると言っても過言ではないものだ。
そして仕上げの評価にも、書類とデータが用意されている。
新商品の発売1ヶ月前には、技術者が講師となり、社内勉強会が連日開かれる。
営業担当者は学んだ知識を活用し、毎日ロールプレイングをしてから商談に向かうのだ。
商談が終わると、今度は上司が顧客に直接電話を入れて、説明内容と顧客の感触を確認する。社内ではこれをハッピーコールと呼んでいる。
つまり営業の動きも、開発の入り口も、評価の根拠も、すべて書類とデータに落ちている。誰が社長の椅子に座っても、動きが止まらないようになっているのだ。
2003年10月、日経ビジネス誌は再び滝崎を取材する。
このときの取材で滝崎は仕組みについて話をしている。
「カリスマというと、全て自分で決裁するイメージがありますよね。そうではなくて、権限を委譲して、考え方を伝えて、現場と一緒に考えていかないといいアイデアは生まれない」
そして滝崎は、こうも語っている。
「創業当時から、自分がいなくても会社が回るようにずっと考えてきた」
社長交代の2000年は、彼が「自分を抜く作業」を可視化した最初の年だった。
可視化する前から、その作業は十年以上続いていた。
先に動いていたのは仕組みのほうで、社長というのは、そのうえで交代していくひとつの役どころだったのだ。
第8章 設計図から、自分を抜く
2025年12月22日、5代目社長として中野鉄也が就任した。
44歳、歴代最年少である。
2004年に一橋大学商学部を卒業してキーエンスに入社し、国内で制御機器の営業を約7年経験する。そのあと中国に渡って制御機器の責任者を務め、2023年12月から取締役・海外事業強化部長として海外戦線の前線にいた人物である。
中野の就任は、4代目の中田有が社長を退いた日でもある。
就任からわずか6年での降板である。
会社の最重要課題が国内から海外に移ったため、海外責任者である中野を社長に据える必要があった。
だが中田は取締役特別顧問という、創業者退任後のキーエンスを内側から見守るポジションに残る。会社の外には出ない。仕組みの一部として、座り直したのだ。
佐々木道夫(2000年就任、43歳・明治大学政経)
山本晃則(2010年就任、45歳・立命館大学理工)
中田有(2019年就任、45歳・関西学院大学法)
中野鉄也(2025年就任、44歳・一橋大学商)。
全員が40代で就任し、10年前後で交代した。
誰一人として創業家ではないし、出身大学もすべて異なる。
社長を選んでいるのは滝崎ではない。
キーエンスという会社の仕組みのほうが選んでいたのである。
中野の就任から4ヶ月後の2026年4月24日。
キーエンス本社から、取締役・滝崎武光が退任するという発表がされる。
事業が安定的に運営できると判断したため、本人からの申し出によるものだった。
本社ロビーには、1994年に飾ったあのアンモナイトの化石が、そのまま残っている。「変化に対応していかなければ化石になる」というメッセージのために置かれた、数億年前の螺旋である。
有言実行。
設計者は、それから32年後、化石になることなく静かに席を立った。
そして滝崎が描いた設計図は、もう設計者の手を離れ、また新しい設計図を描きはじめている。
おわりに
だいたいの創業者という生き物は、自分の像を会社の中心に置く。社史に名前を刻ませ、本社ロビーに胸像を立て、引退後も顧問・相談役として議決権の届く場所に残る。
滝崎武光がやったのは、その逆だった。本社ロビーに飾られた数億年前のアンモナイトは、その作業の隠喩でもある。過去に縛られないために、過去そのものを毎日見せ続ける。
社史を作らないという方針は、過去を語らないことではない。常に新しいものを作るという覚悟でもある。
そして2026年、半世紀かけて作られた「自分のいない会社」は、その完成を業績の数字で証明した。
創業者の退場が、業績の変数にすらならない――それが、滝崎武光が望んだ会社の完成形だった。
筆者あとがき
この記事を書きながら、何度か立ち止まったのは、1982年の時の判断である。8年かけて自分の手で育ててきた線材切断機の事業――年間10億円、利益率20%超まで持ち上げた最初の成功を、滝崎はあっさり売却した。
資源を利益率40%のセンサーに寄せるため、ということになっている。
だが普通の創業者は、自分の最初の成功をそう簡単には捨てない。
十代で「数字で勝負する事業家」を選んだ少年の覚悟と、80歳でコメントもなしに席を立った老人の素っ気なさは、同じ手触りをしている。
会社からも、自分自身の過去からも、自分を抜く――その作業を半世紀続けた人物だった。
《参考資料》
キーエンス株式会社(公式サイト 会社概要・会社沿革/公式リリース 2025年10月29日 社長交代・2026年4月24日 取締役退任/有価証券報告書・決算短信 2025年3月期・2026年3月期)
日経ビジネス(1989年5月号もしくは1991年6月号 諸説あり、2003年10月27日号、2023年4月号、連載「歴史の目撃者が語るキーエンス」)
日本経済新聞(2025年10月29日 中野鉄也社長昇格、2026年4月24日 滝崎武光取締役退任)
日経産業新聞(1983年12月 レベルセンサー国内シェア報道)
IR BANK
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MyNewsJapan
The社史
Wikipedia(滝崎武光、キーエンス)
この記事を書いた人
wata9488
フリーライターとして活動しています。 東京在中AI中毒末期。Claude CodeとCodexに人生をささげてます。































