目次
第1章 自宅前の120人
2009年4月、台北市大直の一角に、灯りの落ちないまま夜が更けていく邸宅があった。
モリス・チャン邸の門前。
そこに、TSMCを解雇された元社員120人が泊まり込んでいた。
プラカードには、こう書かれていた。
「企業ゴリラが労働者を欺いた」
塀の外からは、叫びも上がっていた。
「虚偽の削減ではなく、実際のリストラだ」
「大企業が、人々を騙し、いじめている」
台湾警察は事前に50人から60人を配置していたが、夜が深くなっても、誰かを退去させる動きはなかった。
抗議の声は、塀越しに屋敷の中まで届いた。
呼ばれていたのは、邸宅の主、モリス・チャン。
彼は4年前にCEOの座を後継者のリック・ツァイへ譲り、会長として一線からは退いていた。だが、退いたつもりだった、というほうが正確かもしれない。
2009年1月。
リック・ツァイがモリスに事前報告のないまま、840人を解雇していたのだ。
それが今回のデモに繋がっていた。
TSMCには「PMD」と呼ばれる人事評価制度があったのだが、リック・ツァイの言い分はこのPMDの評価が下位5%という基準であったため解雇したというものだった。
本来は人材育成のための仕組みだったが、ツァイ体制はそれを解雇のフィルタに転用していた。しかも実態は、育児休暇や病欠を取った社員を、機械的に下位に押し込む運用になっていたのだ。
そのうえ会社は「会社都合の解雇である」という証明書の発行すらも拒んだのだ。
解雇された側は、失業給付すら受け取れずにいたのだ。
チャンが自分の手で立ち上げた会社が、自分のいない場所で、骨組みを軋ませ始めていた。
そしてその軋みが、いま彼の自宅前まで歩いてきている。
抗議の声は目の前にどんどん積みあがっていく。
第2章 牧場に出されて
1981年、テキサス州ダラス。
テキサス・インスツルメンツ——略してTI——の本社ビルで、49歳のモリス・チャンは、自分の机に置かれた異動辞令を見ていた。
半導体事業のグループ副社長から、品質・教育・生産性担当の上級副社長へ。
役職の位は変わらない。肩書きの長さは、むしろ伸びている。
要するに、栄転という名の左遷だった。
26年後、彼はインタビュアーにこう打ち明けている。
“I felt that I had been put out to the pasture.”
(事実上、牧場に出されたと感じた)
使われなくなった軍馬を、戦場から外して牧草地に送り出すときの、英語の言い回しだった。
まだ上級副社長ではあった。だが、事実上、牧場に出されたと感じたということだ。
モリスがこの会社に入ったのは、1958年。27歳のときだった。
最初の肩書きは、生産ラインのエンジニア管理者で部下が2、3人いた。
担当に就いた生産ラインは、動かしても動かしても合格品が出てこない。
歩留まり——できあがった製品のうち、規格を通る割合——は、ほぼゼロだった。
モリスは温度を変えた。圧力を変えた。不純物の濃度を変えた。ウェーハの厚みを変えた。前職のシルバニア時代に独学で叩き込んだデバイス物理を、ひとつずつ呼び出しては、レシピに当てていった。
TIに入って3年が過ぎたある夜、突然、歩留まりが25%から30%へ跳ね上がった。
その夜の自分のことを、彼は半世紀近く経ったあとも覚えていた。
「眠れなかった。それくらい興奮していた。何か大きなことを成し遂げたと、自分で分かったから」
1961年、TIの金でモリスはスタンフォードへ。
当時、スタンフォード電気工学の本流でもあった教授(ジョン・モール、ウィリアム・スパイサー、ジェラルド・ピアソン)のもとで学び1964年春に博士号を取って戻る。
そして戻ったその日に、半導体事業の副社長から呼ばれた。
「2,000人を率いる重要製品部門のゼネラルマネジャーをやってくれ」
そこから先は、より重要な部門のトップへと、TI社内の階段を一段飛ばしで上がっていく。
1967年、TIで最重要とされる集積回路部門のゼネラルマネジャーに。
そして1972年には、TI全半導体事業のグループ副社長に。
モリスはたったの6年でこのグループの副社長の椅子に座ったのだ。
6年間にやったことを、ふたつ挙げるとすれば、
ひとつは、ボストン・コンサルティング・グループと組んで作り上げた「学習曲線価格戦略」。
市場が値下げを求めてくる前に、四半期ごとに価格を自動で下げていく仕掛けだった。
業界の半分は鼻で笑った。
「必要もないのに、なぜ値下げするんだ」
だが、笑っていた側は、気づけば、TIに市場シェアを取られていたのだ。
もうひとつは、メモリ事業への切り替えだ。
半導体の主流が、より細かく速い新世代の回路へ移ろうとしていたが、TIはその波に乗り遅れていたからだ。
モリスは半導体事業全体を引き継ぐと同時に、新世代のメモリ製品で一気に競合を抜き返し、1972年から1978年、TIの集積回路ビジネスは「世界最大かつ最も利益率の高い半導体事業」と呼ばれるところまでいくのであった。
その看板を作った男を、1978年に上層部は半導体事業から外した。
次のポストは、消費者事業の責任者である。
電卓、腕時計、玩具——TIの新事業だったが、うまくいっていない部門だった。
当時のTIには、「優れたマネジャーなら、どんな事業でも管理できる」という流儀があった。要は半導体で当てた男なら、玩具でも当てるだろう、という発想である。
消費者事業でモリスが残した数少ない成功は、1978年6月のCESで発表された一つの製品にある。
Speak & Spell。
世界初の、シングルチップ音声合成装置を搭載した子供向け英単語学習機である。
「TIの消費者部門が生み出した最高の製品だった」と、本人がのちに認めている。
だが、製品ひとつでは事業は救えなかった。
消費者事業全体の改善にまでは至らずモリスは、その責任を負うことになる。
その結果が牧場への左遷だった。
表向きは、TI全社の品質を底上げする横断的なポストだが実態は、半導体の現場からも、製品づくりからも、投資判断からも切り離された、ライン外のスタッフ職である。
椅子はそのまま、本社ビルの上層階にあった。
窓からは、ダラスの平らな空が今までと同じ角度で見えた。
ただ、その椅子に座っている男は、もう半導体の会議に呼ばれなくなっていた。
49歳から51歳までの2年あまり、彼は「去るべきか、留まるべきか」を考え続けた。
シルバニアを出てから25年。世話になった会社である。
給料はよく、家もあり、退職金の権利もあった。
ただ、自分の興味を引く仕事は、もう手元にない。
苦しい2年だった。そしてモリスは決断する。
1983年、モリスは辞表を出した。
次の仕事は、決めていなかった。
退社のニュースは、ダラスの地元紙と業界誌、そしてウォール・ストリート・ジャーナルに載った。翌日から、ダラスの彼の家の電話が鳴り続けた。勧誘の電話だ。
3つか4つの引き合いがあり、彼が選んだのは、ニューヨークに本社を構えるジェネラル・インスツルメント社の、社長兼COOの椅子だった。TIほど大きくはないが、桁は十分に大きかった。
1984年、52歳のモリスは、ダラスを離れ五番街と56丁目の角にできたばかりのトランプタワーの高層階に住まいを移した。当時のニューヨークでいちばん新しい超高層ビルである。
窓の外には、セントラルパークの夜の影と、その向こうのマンハッタンの灯りが広がっていた。
だがその窓の内側で、モリスが過ごす時間は、1年余りで終わる。
「悪い会社ではなかった。ただ、TIでやってきたものとは、まったく違うやり方の会社だった」
TIは、自分の事業を自分で育てる会社だった。半導体で稼いだ金は、半導体に戻る。
ジェネラル・インスツルメントは違った。儲かりそうな事業を買ってきて、立て直して、また売る。売って、また別の事業を買う。半導体は、その商品リストの一品でしかなかった。
モリスの肌にこの経営方針は合わなかった。
そして2度目の辞表を出した。
この時も次の仕事は決めていなかった。
ただ、この1年余りのジェネラル・インスツルメント時代で、後の40年を決定づける一人の若い男と出会っていた。
ゴードン・キャンベルというエンジニアだ。
キャンベルは、自分のスタートアップで5,000万ドルを調達したいとジェネラル・インスツルメント時代のモリスに告げていた。
1980年代半ばに半導体の会社を立ち上げるには、まず工場を建てる金を集める必要がある。設計の腕があっても、工場が建たなければ、シリコンは一枚も焼けない。キャンベルが言った5,000万ドルというのは、その工場の建設費だった。
その額を集められず、設計者たちが机の前で足踏みしている光景を、モリスはTIでもジェネラル・インスツルメントでも、何度も見てきたのだ。
この時は結局話がまとまらず途中で終わった。
しかし数か月後、彼がまた社長室を訪ねてきた。
今度は、相談ではなく、報告だった。
「資金は、もう要らなくなった。日本の半導体企業に、製造を委託できることが分かったんだ」
モリスが、そのときどんな顔をしたかは、口述歴史に残っていない。
ただ、その日からこの会話は、彼の頭から消えなかった。
キャンベルが立ち上げた「チップス・アンド・テクノロジーズ」は、のちに「世界初のファブレス半導体企業」と呼ばれることになる会社である。
設計だけを社内に持って、製造は外注する。
それでも会社は回る、ということを、キャンベルは目の前で証明してみせたのだ。
ただ、ひとつ、気になることがあった。
設計だけの会社が増えていけば、その製造を専門に引き受ける会社が、いずれ要るはずだ。
キャンベルが頼った日本のメーカーは、空いた工場枠で引き受けたにすぎない。
受けること自体を生業としてる会社はまだどこにもなかった。
1985年。当時のシリコンバレーは、ベンチャーキャピタルが大金を回し始めたばかりの時期である。
米国経済の主役は、製造業ではなく金融に移ろうとしていた。引退してVCに転じる選択肢が、いくつも舞い込んできていた。
そこに、予想外のところから電話がかかってきた。
太平洋の向こう側、台湾の行政院長、兪国華(ゆ こくか)からである。
「あなたには、工業技術研究院——ITRI——の院長になってほしい」
そして、こう続けた。
「あなたが半導体ビジネスでやってきた、研究結果を経済的成果に変えるという仕事を、今度は台湾の産業全体のために使ってほしい」
しかし1985年の台湾は、世界地図のうえで居場所を失いつつあるという現状だった。
1971年に国連を離れ、1978年12月に米国との国交を断たれることが決まり、1979年1月にその国交が実際に切れたばかりだった。経済の柱は、農業と労働集約型の繊維・組み立て産業である。
そのうえ給料は、米国の現役経営者時代と比べて、桁が変わってしまう。
だが、彼自身は、もう金で動く必要のない位置にいた。
のちにモリスはこう言っている。
「あの当時、ビッグマネーは金融とベンチャーキャピタルにあると思われていた。だが、台湾の話のほうが、興味として惹かれた」
1985年、54歳のモリス・チャンは台北に降り立った。
赴任先は、新竹のITRI本部。
これで自分は「米国の経営者」から、「台湾の研究機関の長」になったつもりだった。
だが数週間後に、モリスは行政院に呼ばれる。
呼んだのは、無任所大臣の李國鼎——K.T.リーである。
「台湾経済奇跡の設計者」と呼ばれてきた男だ。
1976年頃から、彼はモリスに何度も声をかけ続けていた。
海外の最前線で半導体を率いている台湾系のモリスを引き込みたかったからだ。
リーは、こう告げた。
「台湾で、半導体産業を興したい」
「あなたには、大規模な半導体事業を経営した経験がある。理想的だ」
「あなたに、新しい会社を起こしてほしい」
半導体産業を持っていない島で、それをゼロから立ち上げる事業計画を組む。
この時頭の中にあったのは、いくつかの記憶の断片だった。
TI在籍中から読んでいた、カリフォルニア工科大学のカーバー・ミードの著作。
1970年代後半に彼が書いた論考は、半導体の設計と製造は技術的には別の会社が分担できる、という論だった。ミード自身は「製造専業の会社が現れる」とまでは書いていない。
だが、論を最後まで詰めれば、そういう会社は成立する。
問題は、その客となる「設計だけの会社」が、まだ世の中にほとんどないこと。
30年近く業界で経験してきたことも蘇る。
インテル、TI、モトローラ、日本企業で彼らがどう競争してきたかを、内側から見続けてきた記憶だ。
エンジニアたちが、自分の会社を作りたがっていた。
だが、できなかった。
理由はひとつ——工場を建てる金が集まらない。
資金調達のために訪ねてきたことのあるゴードン・キャンベル。
台湾には、強みらしい強みがほとんどない。研究開発、回路設計、海外営業、知的財産——どれもほぼゼロ。ただひとつ、半導体製造の力だけは「これから磨けば伸びる」可能性が見える。
今後設計だけの会社が増えていくなら、彼らのために製造だけを引き受ける会社が、いずれ必要になる。その役を、台湾が担えばいい。
これらを並べてみると、答えはひとつだった。
設計はしない。販売もほぼしない。顧客とは絶対に競合しない。預かった設計図を、シリコンに焼いて返すだけの会社——のちにピュアプレイ・ファウンドリと呼ばれることになる形が、この時モリスの頭の中ではできあがっていた。
後年、モリスはこの構想についてこう振り返っている。
「これは、最も害の少ない選択(the least evil choice)だったかもしれない」
台湾の弱点を、ひとつも踏まずに通り抜けて、唯一可能性のある一点だけを使う。
「最良」でも「最善」でもない。
「最も害の少ない」
この後の40年の輪郭を決めることになる言葉だった。
第3章 不評な賭け
1986年、カリフォルニア州サンタクララのインテル本社。
出資の打診に訪れたモリス・チャンを、インテルは一蹴した。
インテルだけではない。
テキサス・インスツルメンツ、モトローラ、AMD——行く先々で断られる。
「製造専業のファウンドリ」というアイデアには、市場が見えないというのが答えだった。
当時の業界は、IBM型の垂直統合が常識。設計と製造を切り離して、製造だけで稼ぐという話を、まじめに聞く者がほとんどいなかった。
だがそんな中唯一手を上げてくれたところがあった。
オランダのフィリップスだ。
出資比率は27.5%前後、出資金は約5,800万米ドル。
残りは行政院国家発展基金が48.3%を持ち、台塑グループや耀華玻璃など台湾系の8社前後が小口で並んだ。
総資本は1億4,500万米ドル。これに台湾政府の融資も加わって、1987年2月21日、新竹サイエンスパーク内に台湾積體電路製造股份有限公司が設立された。
略称、TSMC。
初代CEOにフィリップス側からジム・ダイクス(James Dykes)が派遣されたが、1年で退任。実質的な経営は、モリスが引き取ることになる。
最初の工場——TSMC内でFab 1と呼ぶ——は、ITRIの旧施設を改修して立ち上げた。
直径6インチのシリコン円盤、いわゆるウェーハに、線幅2ミクロンの回路を刻むラインだ。
月産能力は、1万3,000枚。
ただし、2ミクロンというのは、当時の最先端から2.5世代遅れたノードだった。
同じ頃、インテルやIBMは1ミクロン以下の領域で次世代CPUを刻もうとしていたのだ。
TSMCの工場で作れるのは、その一段も二段も前、誰もが自社の最先端ラインで作りたがらないような旧世代の物だった。
設立初年度の1987年も、3年後の1990年も、TSMCは赤字を計上。
注文が薄く、稼働率が上がらない。建てたばかりの工場は、ほぼ休眠状態だった。
「最初の数年は、本当に厳しかった」
モリスの言葉だ。
最初の顧客の中には、たしかにIBMの名もあった。
だが彼らが回してきたのは、自社のラインで作るのが惜しいような、旧世代のチップばかり。
業界の言葉で言えば、「おこぼれ」。
モリスたちは、その「おこぼれ」を、ありがたく受けなんとか食いつないでいた。
しかし転機は、突然やってくる。1988年インテルのチームが突然、新竹を訪問してきた。
「自社の古い製品を、ここで作らせてくれ。その分のキャパシティを、最先端品に回したい」
新しい仕事が舞い込んできた。しかしインテルは、自社工場で回している厳しい規律を、そのまま持ち込んできた。
工程ごとに数字を取り続け、ばらつきを統計で監視する「統計的プロセス管理(SPC)」。装置が壊れる前に止めて整備する「予防保全」。
TSMCは、これに食らいついた。
そして試験生産で、インテルが要求する歩留まり——投入したウェーハから取れる合格チップの割合——を、満たした。
インテルは最初の重要な米国顧客となったのだ。
その噂を聞きつけたモトローラ、TI、フィリップスが、次々に発注を入れる。
製造専業という設計が、世界最大手の品質基準と整合する。それが、この新竹で証明されたのだった。
「ここから先は、ほとんど後ろを振り返らなかった」
モリス自身も後年、こう語っている。
誰にも歓迎されないまま始まった賭けが、自分のための市場を、自分の手で育て始めたのだった。
第4章 夜中の手紙と震度7.7
1997年、カリフォルニア州サンノゼ。
瀕死のNVIDIAを率いていたジェンスン・ファンは、TSMCのサンノゼ事務所に何度連絡を入れても、返事をもらえずにいた。
新しいチップは出来上がっていたが、製造を引き受けてくれる相手が見つからなければ、会社はもたないという状況だった。
ファンはモリス・チャン本人に、直接手紙も書いた。
「我々は小さい会社だが、極めて有望な製品を持っている。製造を引き受けてもらえれば、NVIDIAを救えるだけでなく、TSMCの主要顧客になる」
新竹のオフィスでその便箋を読み終えたモリスは、サンノゼ事務所がジェンスンの度重なる問い合わせに応答していなかったという事実を知り、苛立った。
後年、本人がこのときの感情をこう振り返っている。
「将来の顧客に対しては、たとえどんなに小さく見える相手でも、決して怠慢があってはならない——営業には常々そう言ってきた」
モリスは便箋に書かれた電話番号に、自分で電話をかけた。
「主要顧客になるには、年間5,000万米ドルの発注が必要だ」
当時のTSMCの年間売上は、すでに10億米ドルを超えていた。
5,000万米ドルは、その5%にあたりモリスが「主要顧客」と呼ぶために決めていた基準でもある。
ファンは即答する。
「そうなります」
そしてその言葉通り2〜3年で、NVIDIAはTSMCのトップ5の顧客に入る。
モリスはこの電話の時のことを、こう語っている。
「彼は明確で楽観的だった。私は、彼の言葉を信じた」
同じ1997年、TSMCは資本市場でも格が一段上がる。
10月8日、ニューヨーク証券取引所にADR形式で上場。
台湾企業として初めて、NYSEの構成銘柄になったのである。
台湾証券取引所で上場してからわずか3年での上場だった。
「おこぼれ」のキャパシティで始まった会社が、創業10年で、ニューヨーク証券取引所の銘柄になった。
ただ、この年に社長のドナルド・ブルックスが辞表を出した。
「家族から6年間、離れすぎた」そう言い残しての退任だった。
1991年に就任して以降、年平均54%の売上成長と108%の利益成長を主導してきた人物である。
後任は、モリス自身が兼任し、ここから2005年まで、会長兼CEO体制で走ることになる。
1998年、通貨危機の影響が数字に出る。
TSMCの純利益は、前年比14.6%減。
第2四半期には、前期比26.3%減となる。
だが需要が冷えているときこそ勝負に出る。
モリスは2007年までに製造能力を二倍にする計画を発表したのだ。
1999年9月21日、午前1時47分。
台湾中部・南投県の集集を震源に、マグニチュード7.7の地震が、島を直撃した。
新竹科学パークの30近い半導体工場は、深夜操業中だった。
強烈な揺れと、全島停電が、同時に襲った。
建物そのものの被害は、耐震設計のおかげで軽微だったが、停電によって製造中だったウェーハの大半が、廃棄となってしまう。
だがそれでもTSMCの復旧は、速かった。
台湾電力が「国家最優先」として、新竹パークへの送電を最初に戻したからだ。
9月25日、装置の20%が稼働可能になった。
27日には70%が動き完全復旧までには約10日かかったが当初の予測では2週間だったのでどれだけTSMCが台湾にとって重要だったかわかる。
地震による損失は約NT$10億——US$換算で約3,100万米ドル——と推定された。
だが、それでも1999年第3四半期の売上はUS$6億3,500万、純利益はUS$1億9,700万。いずれも、当時の過去最高を記録した。
第5章 IBMに頭を下げない
2000年、IBMの技術者団がTSMCを訪れた。
「0.13ミクロンの銅配線プロセス——次世代の最先端の製造技術——を、共同開発しよう。ただしTSMCは、自社の研究開発を止める。うちが作った製造レシピを、そのまま使ってもらう」
共同開発という言い方だったが、中身はライセンス契約だった。IBMが作った技術を、TSMCがライセンス料を払って使う。
モリスは、これを断る。
翌2001年の第1四半期、TSMCの工場から、0.13ミクロン銅配線プロセスの量産ウェーハが出荷された。世界で初めての量産だった。
前の年にIBMが「うちのレシピを買え」と勧めてきた時の技術である。
TSMCは、それを自前の研究開発だけで作り上げていたのだ。
当時、IBMは同じ提案を他のファウンドリにも持ちかけていた。
台湾のUMCとシンガポール国営のチャータード・セミコンダクターはこのライセンス契約を受け入れていた・
採用した2社は、いざ量産に入ると歩留まりが上がらないという現実にぶち当たり、レシピそのものは買えても、それを自分の工場で使いこなすことができなかったのだ。
しかも、IBMがライセンスしたその技術は、数年のうちに他のファウンドリにも次々と渡っていき優位性はどんどん薄れていく。
自前で作ったTSMCと、借りて済ませた2社。その差は、年とともに開いた。2005年の粗利益率は、TSMCが44%、チャータードが11%。2010年には、TSMCの売上がUMCの3.5倍に達した。
もっとも、TSMCの2000年代が、最初から順調だったわけではない。0.13ミクロンの量産を始めたその2001年、ドットコムバブルがはじけた。
半導体の注文は減り、TSMCの年間売上はUS$36億、前年から24%減り、工場の稼働率は、第1四半期の約70%から、年央には45%前後まで落ちた。
それでも、TSMCは黒字を守った。
不況のなかでも、TSMCは技術への投資をゆるめない。IBMの技術を借りないと決めた以上、その先は自分たちで切り開くしかない。TSMCがとった道は、第一級の頭脳を自社に集めることだった。
まず2001年、TSMCは初代のCTO(最高技術責任者)に、胡正明(Chenming Hu)を据えた。UCバークレーの教授で、トランジスタを立体的に作る「FinFET」——のちに省電力チップの主流になる構造だ——を考え出した一人である。
胡のもとで、TSMCは「回路をどこまで細くできるか」という競争に身を乗り出し始める。線幅は、0.18ミクロンから0.15、0.13、そして90ナノメートルへと、世代ごとに細くなっていく。細いほど、同じ面積に多くの回路を積め、動作は速く、消費電力は小さくなる。この微細化を進めることを、業界では「次のノードへ行く」と言う。そしてファウンドリの優劣は、ほぼここで決まる。
微細化を続けるには、回路を焼き付ける技術そのものも進化させなければならない。光で回路図をウェーハに転写する工程を「リソグラフィ」と呼ぶ。その光学系に水を一層はさんで、より細い線を焼く——この「液浸リソグラフィ」を最初に提唱したのが、IBMの研究者たちだった。
TSMCは2000年代、その提唱者のひとり、林本堅(Burn-Jeng Lin)を自社に迎える。胡正明はトランジスタの設計で、林本堅は回路の焼き付けで、それぞれ世界の最前線にいた。TSMCは、その二人を社内にそろえたことになる。
IBMの技術は、断った。だが、IBMの技術者は、迎え入れた。
こうして技術と人をそろえたTSMCの微細化は、2003年に90ナノメートルへ届く。まず「リスク生産」——量産の前に少量だけ流して問題を洗い出す段階——を通し、翌2004年には本格的な量産に移った。
2005年5月10日、TSMCはリーダー交代を発表。共同創業者のF.C. ツェン(曾繁城)が、副会長に上がる。
社長兼CEOには、リック・ツァイ(蔡力行)。1989年にツェンが米HP(ヒューレットパッカード)フォートコリンズからスカウトして以来、TSMC社内で育ってきた人物だ。モリスは会長専任となりCEOからは外れる。74歳での引退だった。
そして問題の2008年9月、リーマン・ショック。
TSMCの売上は、2008年第3四半期のピークから、第4四半期にマイナス38%。2009年第1四半期には、さらにマイナス38.8%まで沈みリック・ツァイは取締役会への事前報告はなしに840人の首を切ったのだ。
退職金も給付もない。
第6章 77歳、台南の食卓
自分が築いた会社が、自分のいないあいだに、自分の原則を裏切っていた。
「社員は会社の最重要資産だ」——創業以来モリスが掲げてきたその一線を、後継体制は840人の解雇で踏み越えてきた。
そして4月、その抗議は、彼の自宅の門前にまで来ていた。
会長として一線を退いていたモリスは、もう一度CEOの椅子に座り直すことを決める。
2009年6月11日の夜、TSMCの取締役会は全会一致で、モリス・チャンをCEOに再指名した。翌12日、正式に就任する。77歳での復帰だった。
その同じ6月12日、リック・ツァイはCEOの座を解かれた。移されたのは、ソーラーとLEDを手がける小さな新規事業部門。社内で育った後継者は、傍流(ぼうりゅう)に退き、2013年にTSMCを去ることになる。
その3週間前、5月20日。モリスは全社向けのテレビ演説に立っていた。
「6月1日から、解雇された840人を、全員呼び戻す」
そしてPMDシステムを解雇の道具として使ったことも、モリスは謝罪した。
「TSMC社員は、会社の最重要資産だ」
「PMDは今後、解雇の手段としては使わない」
この日以来、TSMCはリストラを実施していない。
復帰したモリスが手をつけたのは、社員のことだけではなかった。大口顧客のNVIDIAとのあいだにも、片づけるべき問題が残っていた。TSMCの40ナノメートル・プロセスは歩留まりが安定せず、そこにチップ生産を委託していたNVIDIAは、深刻な損失を抱えていた。製造を担ったTSMC側の問題だった。
3週間かけて、社内で損害を精査し、そのうえで、ジェンスン・ファンの自宅を訪ねた。
家族と、夕食を共にする。
中国料理を囲む席だった。
食事を終えた、午後8時過ぎ。
モリスはファンを書斎に呼び、こう告げた。
「1億ドル以上の補償を、48時間以内に受諾せよ。次の交渉はない」
ファンは承諾し後年、この夜のことを自伝で書いている。
「交渉は、関係とは別物だ」
復帰したモリスの戦略は、それまでと正反対だった。リーマン後の2010年、世界中の半導体メーカーが現金を抱え込んで守りに入るなか、TSMCは逆に攻めに出る。資本支出を前年のほぼ2倍、約59億米ドルまで引き上げ、その資金を次世代の28ナノメートル・プロセスに一点集中したのだ。
投資そのものを守る仕組みも作った。R&D(研究開発)予算を「売上の8%」と恒久ルールに固定し、毎年の予算交渉で削られる余地を、はじめからなくした。
さらに、設計サービス部門を廃止する。顧客の設計まで請け負えば、いつか顧客と食い合うことになる。「顧客とは競合しない」という創業時の誓いを、ここで引き直したのだ。
そして2010年11月9日の夜。台北のモリス・チャン邸で、家族と中国料理を囲んでいたその席に、フォックスコン創業者のテリー・ゴウが、思いがけない客を連れて現れた。
AppleのCOO、ジェフ・ウィリアムズである——ゴウはモリスの妻ソフィーの二親等の従姉弟にあたり、だからこそ、予告なしでもチャン家の食卓に客を連れてこられた。
「TSMCに、Appleのチップを作ってほしい」
席につくとウィリアムズは、そう切り出して、こう続けた。
「40%のグロスマージンを許容する」
モリスは、違和感を覚えた。「40%を許容する」と言われても、TSMCのグロスマージンは、すでに45%ある。気前のいい申し出に見えて、その実、値下げの要求だったのだ。
しかも、Appleが求めたのは20ナノメートルのプロセスだった。TSMCのロードマップは28ナノメートルから16ナノメートルへ直行するはずで、20ナノメートルはそのあいだに割り込む「半端なステップ」になる。そのためだけに、100億米ドル規模の設備投資がいる。
そもそもApple側にも、TSMCに頼らねばならない事情があった。当時のAppleは、スマートフォン市場でSamsungと真っ向から争いながら、その心臓部のチップを、よりによってライバルのSamsungに作らせていた。特許訴訟まで抱えるなか、Appleはこの居心地の悪い依存から抜け出したい。だが、Samsung以外で最先端を量産できる相手は、世界にTSMCしかいなかった。
モリスの側から見れば、条件は割に合わない。だが、Appleがもたらすのは、利益率ではなく「量」だった。iPhoneは毎年2億台規模で売れる。
その膨大な発注が最先端の工場を埋め続ければ、次のノードへ進むための莫大な研究開発費を、まかなえる。
逆に言えば、Appleの量がなければ、TSMCは微細化の最前線を走り続けられない——そして、その最前線こそ、SamsungとインテルをTSMCが引き離せる、唯一の場所だった。
だからモリスは、この話に乗る決断を下した。ただし、まるごと呑んだわけではない。Appleは「配当を削ってでも設備投資に回せ」とまで求めてきたが、そこは拒んだ。資金は借入で賄う。最初の発注も、Appleが要求した量の半分だけ引き受けた。会社を傾けないよう、リスクに蓋をしたうえでの「イエス」だった。
「会社を賭けた。でも、負けるとは思っていなかった」
モリスは、後にこう語っている。
Appleが自社チップの製造をSamsungに委ねてきた時代は、ここで終わった。これから先のTSMCは、Appleの最先端チップを、毎年作り続ける会社になる。
第7章 世界の人質
2015年10月、iPhone 6sの分解レポートが、奇妙な事実を暴いた。同じA9チップに、Samsungの14ナノメートル版と、TSMCの16ナノメートルFinFET版の、二種類が混じっていたのだ。
技術系メディアがベンチマークで比べると、CPUに重い負荷をかけたとき、TSMC版のほうがバッテリーが長持ちした。同じiPhoneなのに、中身の出来が違う——「Chipgate」と呼ばれて騒ぎになる。
Appleは「実際の使用では差は2〜3%だ」と火消しに回ったが、消費者の評価はむしろ逆に固まっていった。そして次のA10 Fusion以降、AppleはTSMC1社だけに製造を任せる体制へ、完全に切り替える。
ここから先、TSMCは微細化の最前線を、ほぼ単独で走ることになる。
2016年、16ナノメートルFinFETに新しいパッケージ技術「InFO」を組み合わせたA10。2017年、10ナノメートルのA11。2018年には、業界で初めて7ナノメートルの量産にこぎつけ、ファーウェイのKirin 980とAppleのA12を載せた。2019年、極端紫外線(EUV)を使うN7+プロセスでは、ファーウェイのKirin 990 5Gが最初の客になる。
乗ってきたのはAppleとファーウェイだけではない。AMDは、製造を委託していたGlobalFoundriesが7ナノメートルを断念したのを受けて、2019年からTSMCに一本化する。その7ナノメートルで作ったRyzen 3000とEPYC Romeで、AMDは歴史上はじめて、プロセスの細かさでインテルを追い越した。
そして2020年4月、Apple A14とMac用のM1に向けて、5ナノメートル(N5)の量産が始まる。その生産能力の3分の2を、Appleが押さえた。
その間、当のインテルは足踏みを続けていた。10ナノメートルの量産を、5年も遅らせていたのだ。
綻びは、トップから表に出た。2018年6月、CEOのブライアン・クルザニッチが社内規定違反で辞任する。後任のボブ・スワンは、2020年7月23日の決算で、こう認めた。
「7ナノメートルの歩留まりが、社内目標から約12か月遅れている」
インテル株は翌日までに16〜18%下落し、時価総額にして約450億米ドルが、一夜で消えたのだった。
同じ2020年6月、TSMCの時価総額はすでに4,100億米ドルを超え、世界の上位10社に入っていた。微細化でつまずいたインテルとの差は、ここで一気に開く。
だが、世界がTSMC一社に頼るということは、その一社が、国家間の争いの標的になるということでもあった。
2019年5月、米国商務省はファーウェイをエンティティリスト(輸出規制リスト)に載せた。さらに2020年5月15日には、規制を一段強める。米国製の装置やソフトを使う海外企業まで、ファーウェイへ供給するにはライセンスが要る、という内容だった。TSMCの製造ラインは、米国製の装置なしには動かない。
TSMCは5月18日、ファーウェイからの新規受注を止めると公表した。既存の注文は9月14日までに出荷を終え、15日以降、ファーウェイ向けの製造は完全に止まる。ファーウェイの最新チップKirin 9000の最後のロットは、この期限ぎりぎりで滑り込んだ。
ファーウェイは、TSMCの売上の14%を占める大口だった。それを丸ごと失っても、2020年のTSMCの売上はUS$455億、前年比31.4%増で、過去最高を更新する。空いた14%を、AppleとNVIDIA、AMD、Qualcommが、余りある発注で埋めたからだ。
TSMCが世界の急所になったことは、政治の最前線にも表れる。
2022年8月2日から3日にかけて、米下院議長ナンシー・ペロシが、25年ぶりに台湾を訪れた。
ペロシは、TSMC会長のマーク・リュウ、創業者のモリス・チャンとランチを囲んだ。蔡英文総統も同席した。この席でモリスは、率直だった。米国がCHIPS法の補助金を注いで自国に半導体産業を取り戻そうとしていることを、こう評したのだ。
「信じられないほど甘い考えだ」
そして、続けた。
「本当に半導体供給を守りたいなら、先に台湾の安全保障に投資すべきだ」
CHIPS法は、その直後の8月9日に成立する。
そして2022年11月30日、もう一つの地殻変動が起きる。OpenAIがChatGPTを公開したのだ。公開からわずか5日で100万人、2か月で1億人が使い始めた。この爆発的な普及が、半導体業界の需要予測を、根本から書き換える。
AIの計算を担うNVIDIAのH100は、TSMCの4ナノメートル(N4)で作られていた。需要が殺到すると、こんどはチップ同士を高密度につなぐ「CoWoS」というパッケージング工程が、生産の首を絞めるボトルネックになる。TSMCはこの能力を、2023年の月産約1万5,000ユニットから、2024年末には4万5,000〜5万ユニットへと一気に広げにかかった。
ジェンスン・ファンは、公の場でこう言うようになる。
「No TSMC, no NVIDIA(TSMCなくして、NVIDIAなし)」
かつて手紙でTSMCに「主要顧客になる」と書き送った若い男は、20数年を経て、TSMCにとって最大の依存先になっていたのだ。
ここまで世界の急所になると、今度は各国が「自国にもTSMCの工場を」と動き出した。米国のアリゾナ、日本の熊本、ドイツのドレスデン。どの国も巨額の補助金を積んで、TSMCを誘致する。アリゾナへの投資は、トランプ大統領との合意も経て、累計1,650億米ドル——米国史上、最大の外国からの投資にまで膨らんだ。
ただし、台湾のやり方をそのまま持ち込んだ現場は、文化がぶつかり、工期は遅れた。2022年、そのアリゾナの着工式で、91歳のモリス・チャンはこう言い切っている。
「グローバリゼーションはほとんど死んだ。自由貿易もほとんど死んだ」
世界中に工場を分散させるしかない、という流れそのものが、その言葉を裏づけていた。
2024年、TSMCの売上も利益も史上最高を更新し、時価総額は1兆米ドルを超えた。94歳になったモリス・チャンは、もう正式な肩書きを持たない。それでも、節目の式典には、いまも姿を見せ続けている。
おわりに
TSMCの40年を貫いているのは、「強みを一つに絞り切った会社が、それを誰にも譲らなかった」という、一本の線である。1985年に台北のオフィスでモリスが紙に書き出したとき、台湾には製造しか強みがなかった。
そこからファウンドリは誰にも譲られず、IBMの提案にも頭を下げず、リーマン後の解雇すら巻き戻された。結果として、世界中のAIチップが、Appleの最先端SoCが、車載半導体が、いまこの一社の工場に集まっている。
「最も害の少ない選択」と書かれた一行は、40年で、世界が手を離せない一行に化けた。その重みを、創業者本人が、まだ式典で言葉にしている。物語が閉じる場所は、まだ誰にも見えていない。
筆者あとがき
この記事を書きながら、最も繰り返し考えたのは、77歳で復帰して「6月1日から840人を全員呼び戻す」とテレビ越しに告げた、その日のことである。会社を離れたつもりの男が、自宅前の声に呼ばれて、戻ってきた。その復帰のあとに引いた「R&Dは売上の8%」「設計サービス部門は廃止」という線は、今のTSMCの背骨そのものになっている。78歳に近い人間が、自分の会社を、自分の手で、もう一度ねじ込み直した。そのねじ込み直し方そのものが、TSMCという会社の正体なのではないかと、書き終えてみても、まだそう思っている。
《参考資料》
Wikipedia (TSMC / Morris Chang / 1999 Chi-Chi earthquake / JASM / ESMC / Apple A8 / Huawei Entity List), Reuters, Bloomberg, Financial Times, The Wall Street Journal, New York Times, TIME, The Diplomat, EE Times, AnandTech, DigiTimes, Nikkei Asia, Tom’s Hardware, IEEE Spectrum, CommonWealth Magazine (天下), Computer History Museum, TSMC公式リリース, Apple公式リリース, Intel公式リリース, NVIDIA公式リリース, 経済産業省「半導体・デジタル産業戦略」
この記事を書いた人
wata9488
フリーライターとして活動しています。 東京在中AI中毒末期。Claude CodeとCodexに人生をささげてます。





























