【主な登場人物】
主人公:伊藤忠兵衛
1842年7月2日。私は近江国犬山郡八幡村(現在は滋賀県豊郷町)で伊藤家の次男として生まれた。私の家は紅長(べんちょう)という屋号を掲げて、繊維品小売業をしている。伊藤家は代々「紅屋」という屋号で商人をしていたが、初代長兵衛が新たに屋号を作り「紅長」という名前にしたのだ。私の父、長兵衛は五代目で、私の兄もいずれ六代目長兵衛という名前を襲名することになっている。
この時代、幼少期につけられる名前と、成人してから付けられる名前は別にある。成人してからは、家督を継ぐ者が名前を引き継ぎ、家督を継がない次男以下も別の名前になる。私の場合は忠兵衛だ。
話を戻そう。伊藤家の次男として生まれた私は、「紅長」を継がないということは子どもの頃から知っていた。それでも近江商人の生まれなのだから、商人になることしか考えてはいない。
6歳になり、寺子屋に通っていた時、誰よりも真剣に勉学に励んだ。商人において学問は基礎知識だと感じていたし、他の子に負けるというのが本当に嫌だったからだ。これは常に次男という2位の位置にいたからこそ、トップになれないジレンマを抱えていたからかもしれないが。
「ただいまー」
「お帰りなさい」
家に帰ると、一番に台所に立っている母を探して声をかけた。母はいつも手をとめて、私の方を振り向き笑顔でそう言ってくれる。それが何よりも嬉しかったからだ。ただ普段は優しい母ではあったが、母も近江商人の妻。厳しいところは厳しかった。
「お母様。そろそろ新しい筆記具が欲しいです」
「……どれどれ、今のものを見せてちょうだい」
私は10㎝ほどになった鉛筆を見せる。「こんなになるまで使って偉いわね」と褒めてもらえると思っていた。しかし――
「まだまだこんなにあるじゃない。物は大切にしなくちゃダメよ。本当に書けなくなってから言ってきなさい」
「他の家の子は、もっと長い鉛筆を使っています」
「よそはよそ、うちはうち。いい? 一切の贅沢は厳禁だからね」
「……はい!」
そういったやりとりを何度もした。近江商人の家庭教育により、質素倹約の徹底がされていたため、私もだんだんと家の常識が身に沁みついていった。
そして私が11歳になった時、商人としての人生を始める重要なことが行われた。それは儀式的な教育「初歩み」だ。これは行商についていくというものだ。することは丁稚奉公のようなものになる。私は父と一緒に行った。兄とは6歳離れていたので、一緒には行っていない。この頃の兄は、すでに商人の修業を終え、家業の別の役割を担っていたからだ。
「お父様。準備ができました」
私は荷物を背負い、父に声をかける。
「そうか、では行くぞ」
「はい!」
父も荷物を背負い、私たちは母に見送られ家を出発した。私たちがまず向かうのは鈴鹿峠。その後、伊勢、紀州、大和と巡っていく。現代の県名で言うと、滋賀から、三重、和歌山、大阪、奈良を一周してくるというイメージだ。それらをすべて徒歩で行く。そのため、約1か月の旅になる。
私は今日の日のことを、ずっと楽しみにしていた。やはり座学だけではわからないことが多いし、父の商人としての顔を間近で見ることができるからだ。得意先にどんな挨拶をし、どういう風に商品の魅力を伝え、そしてどうやって価格交渉をするのか。それが知れることは何よりも嬉しい。それに……。
「忠兵衛。歩く速度が遅い! ちゃんとついて来い!」
「はい!お父様!!」
父は後継者である兄の傍にいることが多かった。家業を継がせる相手なのだから、教えなければいけないことがたくさんあるのだろうし、私よりも6歳も年上だから、修行をさせていたというのもあるだろう。だがこの旅では、父は私だけを見てくれる。父と息子という形ではなく師匠と弟子という形であっても、父を独占できるのは嬉しいものだ。
宿に着くと私は早速食事の準備を始めた。家族旅行であるなら、旅館に泊まり、旅館が食事を用意してくれるものだが、これは仕事だ。そして私の修行でもある。丁稚という立場であるなら、師匠の身の回りの世話は全て行うのが当然のことだった。
そして初歩みの後、私は家に戻って紅長の門前小僧として実務をするようになった。実務といっても、掃除、荷造り、商品の整理だ。しかし、この下働きは繊維製品の種類を覚えるのに役に立ったし、品質を見極める鑑定眼を養うことにもなった。それらが板についてくると、今度は売り上げの計算や帳簿の付け方も学んだ。寺子屋で習った知識が一応役には立っているが、やはり実践だと違う。
「成田様。ご注文頂いておりました織物ができましたのでお届けに上がりました」
初歩みの後も、私は何度も父の行商についていった。約1か月の旅は正直体力的に辛いところはあるが、何度か行っているうちに長距離を歩く筋肉もついてきて、段々と歩くペースも早くなった。
さらに、兄はすでに一人前の商人として父を支えていたので、現場に出ると兄の背中を見ながら学ぶことができたし、兄から直接口頭で教わることもあり、以前感じていた疎外感はなく、信頼関係が強くなったように感じたことも嬉しかった。
しかし、私が14歳の時。突然の出来事が起こる。父がこの世を去ったのだ。
「お父様―!!!」
私は亡き父の前で大声を上げて泣いた。
「なぜ死んでしまわれたのですか!?私はまだ、お父様に教わっていないことがたくさんあります。もっともっと私に商人としての心得を教えてください。どんなに辛い修行でも耐えますから。お願いです。お父様!!!」
「忠兵衛……」
兄が私の肩に手を置き、亡き父を見る。
「まだ若輩者ではありますが、私が六代目長兵衛となり、紅長を引き継ぎます。どうぞ安らかにお眠りください」
兄のその言葉に、もう本当に父は戻ってこないということを理解し、私は涙が枯れるまで泣き続けた。
その日から伊藤家は変わった。父のいない紅長なのだから当然だ。兄と母が奮闘し、商人として立ち回っている。私も早く兄の右腕になれるようにとも思ったが、近江商人の伝統も気になっていた。
それは、「次男・三男は外へ」というものだ。長男が健在なのであれば、長男が家業を守り、次男以下は他家に奉公に出るか、自ら新しい商売を切り開いて分家を作るのが美徳とされている。なぜなら、リスク分散になるからだ。全員が同じ店にいれば、その店に何か問題があった時、全員が路頭に迷うことになる。しかしバラバラに商売をしていれば、何かがあっても助け合うことができるという考え方だ。
「兄上は私にどうしてほしいとは言わない。私がここに残っても、残らなくても、きっと私の意見を尊重してくれるということだろう」
紅長は地元密着型の小売業をしている。だが私は父と一緒に行商をした時、地方で店を構えて商売をするよりも、産地の商品を需要のある遠くの町へ運んだほうが、大きな利益を生み、商店自体も成長させることができると思っていた。つまり、卸売りという手法だ。
「だとすると、兄上の右腕となり家業を支えるよりは、実家の商品を他の県に持ち込み、販売する方が、結果として紅長に貢献することになるのではないだろうか」
熟考のすえ、それが私が辿り着いた答えだった。そして下準備を整え、どうしてその方がいいのかを分かりやすく説明させるためのものも用意した後、兄に伝えることにした。
「兄上。今日は時間を作って下さり、ありがとうございます」
「いや、いい。お前の今後の身の振り方についてだろう?商才のあるお前が、どういう決断をするのか、ずっと楽しみだったのだ」
「兄上……そんな風に思っていたのですね」
いつも背中を見て学び、追いかけ続けてきた兄にそう言われ、私は嬉しくなった。
「私は独立し、分家を作ろうと思います。商品は紅長のもので、外部販売部門というような形にしたいのです。ただ、今の私では1人で行商をする腕がありません。そこで叔父の成宮武兵衛の一向についていこうと思っております」
「そうか、わかった。ただし、行商に出るための資金と商品は私に用意させてくれよ」
「しかし、それは……!」
「可愛い弟のためにできることをさせてくれ。それにお前の行動は紅長のためにもなるんだから、先行投資というやつだ」
「兄上……ありがとうございます!」
そうして私は行商になるための準備を終え、17歳になった時、家から独立を果たしたのだった。
1858年。私は叔父の成宮武兵衛一行とともに、亡き父とも何度も行った大阪へ向かった。叔父の行商ルートは、近江から和歌山を経由して大阪へ行き、戻ってくるというものだったからだ。私も初めは、叔父とともにしばらくは一緒に行こうと思っていたのだが、大阪にいる時にふと、ここより西の地方はどうなっているのだろうか?ということが気になり始めた。
いつまで叔父の一行についていくかの線引きをしていなかったが、ここは勢いに任せて行ってしまうのもありなのではないかと思った。だからその日の夜、叔父にそのことを伝え、兄にしばらく近江には戻らないという伝言もしてもらい、私は単独で長崎に行くことにした。
これまで一番遠くて大阪までしか歩いたことがなかったため、正直なところ長崎までの道のりがどれだけ遠いのかの想像ができていなかった。しかし、一度やると決めたからには、それを遂行したいという気持ちだけはある。それに、まだ見ぬ市場へ行くことで、商いを大きくできるはずだという確信もあった。
まずは山陽道を通り、岡山・広島方面に向かう。西側には西側の独自の文化が形成されていることがわかり、それも大きな刺激になった。各地の綿作地帯や商業都市も、それぞれ個性がある。それに噂とは違うところもあったし、現地に行くことで、どこで何が売れているのかも見えてきた。
「あれ、お兄さん。ここいらじゃ見かけない顔だねぇ」
「近江から歩いてきたって?強盗とか大丈夫じゃったけ?」
土地土地で話し方も変わるため、方言が強すぎる土地では、何を言っているのか聞き取れないところもあったが、基本的にみな親切にしてくれた。ただ、山道を歩いている時は、強盗に襲われる危険があったので、そこだけはとても不安だったが、何とか無事に長崎に着くことができた。
「ここが開港したと言っていた長崎港か!これはすごい!」
私は長崎の華やかさに驚いた。そして、外国貿易で外国の品々がずらっと並ぶ長崎の町並みは、同じ日本とは思えないほど華やかで賑わっている。1859年は日米修好通商条約によって幕末の開港があり、自由貿易港になったばかりだった。それでよりお祭り騒ぎのようになっていたのかもしれないが、この光景は私に大きな影響を与えたように思う。だがその一方で外国人が日本の特産品を安く買いたたき、外国製品を高く売っているように見えた。
「このままでは、日本の富が外国に流れてしまうのではないか……。日本人も自ら海外と渡り合う商売をしなければいけない……!」
それから私は近江に戻り、近江を拠点にしつつも、山陽・九州方面への行商を繰り返した。何度も行き来しているうちに、その土地土地で顔を覚えてもらえるようになり、私自身の顧客網を広げることに成功したのだった。そのおかげで、近江麻布の販売網は構築できたし、資本の貯蓄もできた。
しかしすべてが成功したわけではない。失敗もしている。例えば、資金回収。商品の代金を現金払いではなく、秋収穫後の支払いにしている場合もあり、その場合回収遅れが発生したり、回収不能に陥ったりしたこともあり、損失も出ている。さらに幕末の激動期だったこともあり、各地の相場変動に対応できず、仕入れ価格と販売価格の差で損失を出してしまったこともある。
だがこれらの失敗は失敗だけで終わらせず、二度とそんなことが起きないように、どうすればいいのかを考えるようにした。
そして1872年。明治維新によって交通網が整備され、行商の利幅が減るだろうと予見した私は、ついに大阪の本町に自分の店を開くことにした。屋号は先祖の付けていた屋号の法則に則って、「紅忠(べんちゅう)」だ。
近江から大阪に拠点を移したのにも理由がある。荷物が集まる港があるところに店を構えたほうが効率的だし、客も店に来やすい。さらに近江の山村では最新の情報が入ってくるまでにどうしても時間がかかるが、大阪は最新情報が手に入りやすい。何度も情報の入手に遅れて損をしてきたからこそ、商人において情報の早さが命であることを学んだおかげだともいえる。また、明治政府が経済政策をした事によって、商業の自由化が進み、私のような若手商人が大都市で店を構えやすくなったというのも理由の一つ。
こうして私の店「紅忠」の時代が幕を開けたのだった。
⇒後編に続く
《参考資料》
丸紅株式会社/丸紅のあゆみ/ブランドメディア(公式サイト)
伊藤忠商事株式会社/社史・沿革/歴史(公式サイト)
伊藤忠兵衛記念館(滋賀県豊郷町 公式サイト内)
滋賀大学経済学部附属史料館(「近江商人資料」「丸紅株式会社解題」)
一般社団法人 近江商人博物館(公式データベース)
この記事を書いた人
岩本和代
2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。




























