2003年、ロンドン。
54歳のファーストリテイリング社長・柳井正は、英国子会社から上がってきた閉店リストを机の上に広げていた。
番地、店名、閉店予定日。
リストは三枚あり、最後の頁の余白まで埋まっていた。
2001年9月、ユニクロはロンドン郊外に4店舗を同時開業して英国に上陸。
「フリースで国を変えた男」が、海を渡る。
日本の経済紙はそう書きたてた。
柳井自身、英国を欧州攻略の橋頭保(きょうとうほ)と考えていたし、一時は21店舗まで拡大。
そのうちの16店舗を、いま閉める。残るのは5店舗。
撤退と呼ぶには物々しいが、敗戦と呼ばないわけにはいかない数字である。
同じ年、柳井は新潮社から一冊の本を出している。
タイトルは『一勝九敗』。
「ビジネスは10回挑戦して9回失敗するもの」。
それでも、彼は席を立たなかった。
退くことなく挑み続けた9つの敗北を、一つずつたどっていく。
目次
第1章 働きたくなかった長男
話は、敗戦から4年後の山口県にさかのぼる。
1949年、宇部市中央町。
中国大陸で約8年を過ごして戦地から戻ってきた30歳の柳井 等(やない ひとし)が、町の路地に小さな店を出した。
屋号は「メンズショップ小郡商事」
紳士服と作業着がメインのありふれた店だ。
そしてそのメンズショップ小郡商事ができた年に長男として正は生まれる。
1949年2月7日のことだった。
正は、勉強ができる子ではなかった。後年こう振り返っている。
後年、自身について「クラスで後ろから5番目ぐらいだった」と振り返っているくらいだ。
特に数学が苦手だった。
なので受験科目に数学がない早稲田大学の政治経済学部経済学科を選び、1971年に卒業し、ジャスコ(現イオン)に入社した。
しかしそのジャスコを、9ヶ月で辞めることになる。
理由はたくさんあった。
「小売勤務が性に合わなかった」
「働きたくなかった」
「人前で話すのも嫌だった」
こうして22歳の正は東京の友人宅に転がり込み、一年弱、なにもしない時間を過ごすのであった。
アルバイトもしない、就職活動もしない。
そんな男に、父から手紙が届く。
「家業に戻ってこい」。
父が怖かったのか、東京で食えなくなっていたのか、本人もはっきり書き残していないが、とにかく帰った。
帰って、父の会社、小郡商事に入社したのだ。
そしてたった1か月で長男という理由で早くも取締役となる。
だがこの時くらいから父、等とは度々衝突するようになっていった。
父の仕事の方針は、昔ながらのやり方だった。
顔なじみの客に、ツケで売る。
11人兄弟の極貧から這い上がってきた父にとってこのやり方こそ人生そのものだった。
自分の信じるそのやり方を徹底して長男に叩き込む。
しかし正は頑としてこのやり方を覚えようとはしなかった。
このやり方は正の肌に合わなかったのだ。
店に立つ一方で、米国のチェーンストアに関する本を読み、香港のディスカウントストアについて資料を集めて研究した。
働くことに消極的だった青年は、家業に戻ったことで、父とは異なる小売業の形を考え始めていたのだ。
1984年6月専務となった正主導のもと広島にいままでにない新しい店を出す。
のちに「ユニクロ1号店」と呼ばれることになる店だ。
そして同年9月、35歳になった柳井 正は、小郡商事の社長に就任し、父の等は会長に退いた。
第2章 袋町裏通りの倉庫店、それからQ
1984年6月2日、土曜日。広島市中区袋町。
夜が明けきらない早朝6時、店の前には行列ができていた。
並んでいる客に、店員があんぱんと牛乳を配って回っている。
店の名は「ユニーク・クロージング・ウェアハウス(UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE)」。直訳で「独特な衣料品倉庫」だ。
客は自分で服を選び、自分でレジに持っていく。
当時の日本のアパレル店では、店員が客に張りつくのが普通だった。
柳井はそれを取り払い、米国のGAPで見たセルフサービスの型を、広島の路地に持ち込んだのである。
本当は、広島の本通りに出したかった。
だが、本通りに店を構える金が当時の小郡商事にはなかった。
仕方なく選んだのが、本通りから一本外れた裏通り。
それがユニクロ1号店の住所となった。
裏通りの倉庫のような店にくる理由は1つ。
服が安いのだ。
Tシャツ、トレーナー、ジーンズ。型崩れも、デザインの粗さも、客は気にしない。
値段の安さだけで選ばれていたのだ。
しかしそれが大当たりしたのだ。
1号店を皮切りに、同じシステムの店を広島から山口、岡山とどんどん店舗を増やしていく。
更にこのとき並行して進めていたのが、生産網を海の向こうに伸ばすという作業だ。
香港に窓口を置き、中国沿海部の縫製工場と委託生産契約を結び、日本で企画した型紙を中国で縫わせ、日本の店で売る。
のちに「製造小売(SPA)」と呼ばれる仕組みである。
服の企画から工場の選定、店頭の値付けまでを一社で一気通貫にやる。
アメリカのGAPがすでに始めていた業態の、日本版型だった。
1988年、その香港の窓口で職員が、現地法人を登記する書類に社名を「UNIQLO」と打ち間違えてしまうという出来事があった。
そのスペルミスを、柳井は気に入った。
「Qの方が、Cより格好いい」
1991年9月、柳井は社名を「小郡商事」から「株式会社ファーストリテイリング」に変えた。Fast(素早く)とRetailing(小売業)の合成語である。
ファストフードのように、服を素早く届ける小売業。
男の頭の中にあったのは、宇部の紳士服屋でも、本通りの百貨店でもなかった。
正は日本長期信用銀行広島支店から融資を取り付け、年30店ペースの新規出店を打ち出す。動き出してからは、早かった。
宣言した年30店ペースを守りながら、ユニクロは西日本のロードサイドを一気に埋めていく。
1994年7月24日、ファーストリテイリングは広島証券取引所に上場。
公募価格は7,200円。初日は買い注文が殺到して値がつかず、2日目にようやく初値がついた。1万4,900円。公募価格の倍を超えていたのだ。
地方の無名だったアパレル株が、東京の機関投資家のスクリーンに映った日。
袋町裏通りの倉庫店から数えて、ちょうど10年が経っていた頃だった。
だがこの会社は、地方を出てもまだ郊外にいた。
本社は広島、上場したのも広島、店舗網の主戦場は地方のロードサイド。
ファッションの中心地・東京の都心部に、ユニクロの店はまだほとんどなかったのだ。
本当の勝負は、4年後の東京で始まる。
第3章 1998年、原宿事変
1998年11月、東京・原宿。
ユニクロが都心に初めて構えた店の前には、開店前から客の列が伸びていた。
それまでのユニクロは、広島と山口を皮切りに、北海道から九州までロードサイドを埋めてきていた。郊外の幹線道路沿いに広い駐車場とともに立つ、家族連れ向けの店としてだ。
それが、ファッションの聖地・原宿の路面に乗り込んできたのである。
店の1階は、フリースで埋め尽くされていた。
軽くて暖かい、ポリエステル素材の防寒衣料。
当時の日本では登山やアウトドアの専門品で、有名ブランドものなら1万円を超えるのが普通だった。それが、ユニクロではどれも1900円。しかも51色の中から選べてしまう。
客は服を腕に抱えてレジに並んだ。キャッチコピーは、たった一行
「フリースに自信あり」
テレビCMでも紙の広告でも、この一行が繰り返される。
結果は、のちに業界関係者から「原宿事変」と呼ばれることになる。
1998年に200万着売れてからも年々その売り上げを増やしていき2000年には2600万着が売れる。
実に国民の5人に1人がユニクロのフリースを着ている計算になる。
「安かろう悪かろう」。それまでユニクロはそう呼ばれてきた。
しかし原宿事変が、その評価を変えた。
安いだけでなく、品質もちゃんとしている。そんなブランドとして認められるようになったのである。
1999年2月、ファーストリテイリングは東京証券取引所第1部に指定替えとなる。
1998年8月期の連結売上は831億円。それが2001年8月期には4,185億円。3年で5倍だ。
地方の無名株が、東証1部の主役の一角に躍り出た。
フリースで日本を変えた男が次に向かったのはロンドンだった。
第4章 ロンドンで16店閉めた男が書いた『一勝九敗』
2001年9月、ロンドン郊外。
ユニクロは英国市場に4店舗を同時展開して上陸。
フリースの会社が欧州に攻め入る、と日本の業界紙は色めき立つ。
柳井は英国の老舗百貨店出身の経営陣を雇い、現地法人のかじ取りを任せた。
「現地のことは現地のプロが分かる」
経営判断としては、自然な選択だ。
店舗数も一年余りで21まで増やした。
だが客は入らなかった。
柳井は毎週土曜、幹部と夜まで缶詰でミーティングをやった。
社長と店長が、同じテーブルで店ごとの数字を突き合わせる。その距離の近さが、ユニクロの強さでもあった。
だがロンドンでは違った。柳井は現地に行かず、すべてを現地経営陣に任せた。
社長と店長が同じテーブルで数字を突き合わせる場は、どこにもなかった。
日本本社に上がってくるのは、店ごとの数字だけ。
本社は口を出さない。それが、柳井と現地経営陣のあいだの取り決めだった。
これがユニクロらしさを消していた。
そして2003年までに、16店舗を閉めることになる。
出発から3年で、残ったのは5店舗。
しかし、この3年なにもしていなかったわけではない。
東京の小さな研究所で、東レと共同で新しい素材を開発していたのだ。
汗をかくと、レーヨンの繊維がその水分を熱に変える。極細アクリルがその熱を逃がさない。
要するに、着るだけで暖まる肌着だ。
商品名は「ヒートテック」。
2003年に第1号が世に出、のちに累計10億枚を超える商品となる。
もう1つこの3年で柳井が取り組んでいたことがある。
それは「本」だ。『一勝九敗』が、新潮社から世に出たのもこの2003年だった。
本のなかでは、ロンドンで閉めた16店舗の話も、過去の失敗の話も並んでいた。
柳井は、その常識を外し中身にもタイトルにも「失敗」を刷り込んだのである。
時を少し戻して、ロンドン進出から1年後の2002年9月。
ユニクロは上海・徐家匯(じょかわい)に中国1号店を開いていた。
中国がWTOに加盟して、まだ9ヶ月。
繊維関税は依然高く、日本仕様の生地を持ち込めば値段が跳ね上がる。
なので、柳井は店に並ぶ服の生地は全て中国で揃えると決めた。
現地の相場では、パンツが2本20元。日本円でおよそ300円だ。
そこにユニクロは1本1,900円の値札を下げたのだ。現地相場の12倍以上である。
もちろん最初は、売れなかった。
それでも、柳井は店を閉めなかった。
英国では店を閉めていったが中国では閉めなかったのだ。
上海の店は、その後ゆっくりと客足を集めていく。
そして中国はやがてユニクロにとって最大の海外市場となった。
『一勝九敗』を出してから3年が経った2006年11月10日、ニューヨーク・ソーホー。
ユニクロは売場面積約1,000坪の旗艦店を堂々オープンさせる。
店のロゴと内装は、キリン「極生」やSMAPのアートワークで知られる佐藤可士和が手がけた。
ソーホーの売上は好調だったが広告と販促の費用が膨らみ、次第に赤字を拡大させていく。
だが2008年8月になる頃には売上をさらに伸ばし黒字までもっていくことに成功。
そして同年、ユニクロの海外事業は開業以来はじめて年間で営業黒字を計上することになる。
同じころ日本では、夏向けの新商品、機能性肌着「エアリズム」が本格発売されることになる。
2008年の販売数は193万枚。翌2009年には600万枚。1年で3倍に膨らんだ。
日本の成人およそ20人に1人がエアリズムを着ている計算になる。
冬にはヒートテック。夏はエアリズム。
日本のサラリーマンがスーツを脱げば、その下にユニクロがあった。
第5章 世界品質、+J、ZARAを抜いた朝
2009年秋冬、東京。
ユニクロ原宿店の前には、開店を待つ客の長い列が、歩道に伸びていた。
10月の原宿は、朝の冷えがまだ残っている。
シャッターは降りたままで、その手前で並ぶ客の足元に、長い影がいくつも並んでいた。
客のひそひそ声が、人気のない歩道に妙に大きく響いている。
並んでいるのは、フリースを買いに来た客の列ではない。
1998年11月の原宿事変から、数えてちょうど11年が経っていた。
同じ朝、ニューヨーク・ソーホーの店の前にも、ロンドンの店の前にも、上海の店の前にも、同じ列ができていた。
彼ら、彼女らのお目当ては「+J」。
プラスジェイ。「J」はジル・サンダー(Jil Sander)の頭文字である。
ジル・サンダー。本名ハイデマリー・イリーネ・ザンダー。
1943年、ドイツ・ハンブルク生まれのファッションデザイナーである。
1968年、当時24歳だったジル・サンダーはハンブルクに自分の小さなブティックを開いていた。そこで彼女が作り続けたのは、「足す服」ではなく「削いだ服」だった。
襟のフリル。カフスのボタン。襟元の刺繍。袖口の装飾ライン。装飾は、ジル・サンダーの裁断台の上で一つずつ落とされ残るのは、生地と裁断と縫製。それだけだ。
業界は彼女を「クィーン・オブ・レス(少なさの女王)」と呼ぶようになる。
そのジル・サンダーが、自分の名前を冠したブランドで作るジャケットは、一着20万円を超えていた。
2008年4月、ファーストリテイリングはこのジル・サンダー本人に、ユニクロのために服のラインを設計してほしいとオファーを出していたのだ。
契約成立までに、ほぼ一年がかかったが、その一年が、原宿の歩道に伸びた客の列の長さになっていたのだ。
カットソーは1,990円から。アウターは6,990円から14,900円まで。
20万円超のジャケットの裁断と縫製の手触りを、ユニクロの値札で買えるようにする──それが「+J」だった。
各国の主要店舗で「+J」は売り切れが続出する。
2010年秋には、ニューヨークで単日売上が、過去最高を更新した。
2011年6月、ファーストリテイリングとジル・サンダーは契約終了を発表。
売上ではなく、両者で「可能性を一旦追求しつくした」という合意による幕引きだった。
その勢いを抱えて、ファーストリテイリングは次に香港に向かう。
2014年3月、香港島・中環。
香港証券取引所のメインボードに、「ファーストリテイリング」の銘柄名が点灯した。
形式は「香港預託証券(Hong Kong Depositary Receipts、HDR)」。香港の投資家が、わざわざ東京の証券口座を持たずに、香港の取引所で、香港ドルでファーストリテイリングの株を直接売買できる、という仕組みだった。東京の日本市場はそのまま動き続ける。
香港、台北、シンガポール、クアラルンプール。柳井正の商売の相手国は、もう日本だけではなくなっていた。
中華圏の投資家が、東京の銘柄を直接買える。
だが、まだこのときはその形が整ったというだけだ。
2018年8月期の通期決算。
海外ユニクロ事業の売上は、8,963億円。前年比+26.6%。
国内ユニクロ事業の売上を、初めて通期で上回った。
1984年に広島で1号店を出してから、34年。
ファーストリテイリングは、もう国内だけに納まっている企業ではなくなっていた。
2021年2月16日、ファーストリテイリングの株価は10万2,500円になり時価総額は10兆8,725億円に達した。
ZARAを擁する世界最大のアパレル企業インディテックスを初めて上回ったのだ。
ファッション業界の時価総額世界1位を長く守ってきた会社をとうとう追い抜くまでになった。
このとき柳井正は、72歳。
偉業を達成し、本来ならここで物語は終わってもいいところまできていた。
第6章 76歳のCEO
2022年3月7日。
東京、ファーストリテイリング本社のオンライン取材の画面で、柳井正は欧米メディアのカメラに向かって発言した。
「衣服は生活の必需品である」
前後の文脈ではこう続けている。
「だからユニクロは、ロシアでの営業を続ける」
ロシアがウクライナに侵攻してから、わずか11日後の発言だった。
主要ブランドはこの間、ロシア事業の停止を相次いで発表。
マクドナルドも、スターバックスも、IKEAも、ZARAもありとあらゆる企業がロシアでの事業を停止していたのだ。
だがユニクロはこの表明に欧米メディアと欧米SNSの両方から、激しい批判を浴びる。
日本国内でも、不買を唱える声が広がっている。
表明から3日後。結局ファーストリテイリングは、ロシア国内全50店舗の営業を一時停止すると発表した。
各国の経営者のあいだでは、こう言われた。
「判断が遅い」
またも柳井に一敗が足された。
しかしそれでも柳井はファーストリテイリングの舵から手を離さない。
それから2年。
柳井は英国BBCの取材スタジオで、カメラに向かっていた。
「ユニクロは、新疆ウイグル産の綿花を使っていない」
当時、ウイグル自治区の綿花生産は、労働環境に人権問題があるとして、欧米諸国がここ数年、繰り返し指摘してきたテーマだった。中国政府はこれを「欧米による政治的な攻撃」「内政干渉」だと強く否定していた。
要するに「使うか使わないか」は、企業にとって、欧米と中国のどちらの立場に立つかを表明する選択になっていたのだ
柳井はそれに対し、自社の立場を世界に向けてはっきり表明したのである。
結果、中国のSNS「微博(ウェイボー)」を中心に、ユニクロ不買のハッシュタグが急速に広がっていった。さらに中国外務省は記者会見で、欧米の政治的な圧力に企業は屈すべきでない、とユニクロにけん制を加えた。
ロシアでは欧米から殴られ、今度は欧米についたら中国から殴られる。
それでも、会社の数字は伸び続けていた。
2024年8月期の連結売上は3兆1,038億円。営業利益は5,009億円。グループを含めた世界の店舗数は3,595店に達していた。
2003年に『一勝九敗』を出してから、21年。
9敗を書いた男の会社は、3兆円企業になっていた。
2026年。柳井正76歳。いまだ現役。
後継者については、本人がこう言い切っている。
「息子は経営者にしない。株主としてガバナンスをやってもらう」
「働きたくなかった」と東京の友人宅に転がり込んだ22歳から、54年が経っていた。
おわりに
勝ち続けてきた会社の話ではない。負けるたびに、同じ会社の同じ机に戻ってきた男の話である。山口の紳士服屋から数えて45年、ファーストリテイリングは売上3兆円・店舗数2500以上の世界一のアパレルになった。それでも76歳のCEOは、明日の朝も会社にいる。
筆者あとがき
取材で一番引っかかったのは、世界一のアパレルを率いる76歳のCEOが、若い頃の本音を訂正もせず「働きたくなかった」「人前で話すのも嫌だった」と平然と語り続けていることだった。経営の上手さは知性で身につく。辞めない頑固さは性格に根ざす。柳井正という男の45年は、きっと色んな人に勇気を与えてくれると感じた。
《参考資料》
ファーストリテイリング公式サイト/ユニクロ公式サイト
柳井正『一勝九敗』新潮社(2003年)
杉本貴司『ユニクロ』日経BP(2024年)
月泉博『ユニクロ 世界一を目指す経営』日本経済新聞出版
日本経済新聞/日経電子版
Bloomberg/Bloomberg Japan
BBC News(2024年11月28日 柳井正インタビュー)
Diamond Online/Business Insider Japan(2022年ロシア事業関連)
WWDJAPAN/FashionSnap(2009年+J、2021年時価総額世界一、2025年塚越大介取締役昇格関連)
東洋経済オンライン/Newsweek日本版(2024年新疆綿問題関連)
株探(1994年広島証券取引所上場関連)
流通ニュース(2024年8月期決算関連)
ダ・ヴィンチWeb/Walker+(UNIQLOスペル誕生・1号店逸話関連)
Wikipedia(柳井等/柳井正/ファーストリテイリング/ユニクロ)
この記事を書いた人
wata9488
フリーライターとして活動しています。 東京在中AI中毒末期。Claude CodeとCodexに人生をささげてます。




























