キリン創業物語【第3話|トーマス・ブレーク・グラバー編】商人という生き方を全うした男

岩本和代

【主な登場人物】
ウィリアム・コープランド
ウィリアム・ヘンリー・タルボット
エドガー・アボット
トーマス・ブレーク・グラバー(主役)
米井源治郎

 1838年。私はスコットランドのフレーザーバラで生まれた。父は沿岸警備隊員で、とても体格のいい男だった。だから初めは私も、父のような男になるのかなと思っていた。しかし、1851年にアバディーンに一家で移り住んだ時、私の考えは変わった。ここは港町だったのだが、海を渡る高速帆船はカッコいい。 子どもだった私は、一気に船に夢中になった。
 そして1850年代の英国は、世界中に植民地や交易ルートを広げる大英帝国の全盛期でもあった。特に中国や日本との貿易というのは、莫大な富を生むとされており、おかねをかせぐなら商人になるという憧れを皆が持っている時代だった。そんな時代背景も相まって、私は商人になることを決意した。
 学校を卒業した私は、当時アジア貿易で最大シェアを誇っていた英国系商社であるジャーディン・マセソン商会に入ることができた。1857年のことだ。そして採用とともに、私は中国の上海支店に赴任した。ここでの期間は、修行という名にふさわしい立場だ。誰よりも早くから働き、誰よりも遅くまで働く。そうしているうちに時間というのはあっという間に過ぎていく。
 上海に来て2年が過ぎた頃、社長に呼び出された。
「開港したばかりの日本の長崎へ行き、そこで貿易の足掛かりを作ってこい」
 21歳の私には早すぎる重い課題。しかし私は、それだけ会社に見込まれているんだと思い、二つ返事で了承した。

「ここが日本……!」
 1859年.私は長崎に足を下ろしていた。同じアジアでも上海とこれまで鎖国していた長崎とでは、全く様子が違う。独自の文化が形成されていた国に、足を踏み入れたのが初めてだったということもあるが、長崎は私の好奇心を大いに震わせた。そうして長崎にのめり込み、私は順調に実績を積み上げ、1861年にはグラバー商会を作った。マセソン商会の長崎代理店という立ち位置ではあったが、独立した裁量権もある。そのおかげで私は伸び伸びと商売を始めた。その後、武器や軍艦の密輸、薩長へのアプローチなど、歴史的な大ビジネスへと膨れ上がっていったのだ。さらに2年後には、自分の邸宅を作り、長州藩士の英国秘密留学を支援。日本初の蒸気機関車を試走。討幕運動の裏の主役。などなど、大きなことをしてきた。
 しかし1870年。グラバー商会は倒産することになる。もう武器を必要としない日本になってしまったからだ。さらに1874年には、高島炭坑の経営権を政府に奪われ、私の手元には何も残らなかった。
 しかし、ここで救いの手を差し伸べてくれたのが、三菱の創業者である岩崎弥太郎だ。私は彼に買収され、三菱財閥の顧問・相談役になった。そして1877年に、本拠地を東京に移し、自らの手腕を三菱のために使った。
 だが、このままでいいのかという自問自答はある。私は生粋の商人だ。自分の力で何かを成し得たいという欲求をゼロにすることは出来なかった。三菱財閥での立ち位置は、悪くはない。だが、私がしていることは全て、三菱財閥のものになる。そこだけが、引っかかりを覚えるところだった。

 そんなある時、横浜の方で外国人たちが盛り上がっているという話を聞いた。数年前から、日本でもうまいビールが飲めるようになったという話は聞いており、ビヤガーデンができたと聞いた時に行ったことがある。確かにうまいビールだ。その時はまだ、外国人の間でしか広まっていなかったが、徐々にシェアを広げて日本人にも受け入れられるものになるだろうという予測はしていた。だが、その会社が倒産したのだ。
 私がグラバー商会を倒産させてしまったのは、時流の終わりの見極めが甘く、次の商売に手を出していなかったからだ。しかし、ビールはこれからまだまだ伸びる産業。それなのに、なぜ倒産をしたのかと、興味がわいた。
「技師と事務員からの訴訟問題か。人心掌握ができていなかったんだな。そんなに大きな会社でもないなら、それぐらいはしておかないと」
 だが、私が興味を持ったのは、その後の動きだ。横浜居留地に住む外国人たちが集まって、横浜のビールを復活させようとしているらしいということ。
「そんなに、素晴らしいものなのか……?」
 しかも競売にかけられ、機材はすでに中野の浅田が購入済み。彼らは土地だけを購入しようとしているのだ。土地しかなければ、多くのものを自分たちでそろえなければいけないし、醸造技師を呼ぶ必要もある。夢を追いかけているだけの若者集団の気の迷いであれば放っておくが、その先陣を切っているのが私と同じ年代の二人。
「これは……一度見に行ってみる必要があるな」

 横浜に行き、まずは跡地に視察に行った。ただのビール醸造所かと思っていたが、意外と創意工夫がされていた。ここを作ったコープランドという男は、よほどビール作りに情熱をかけていたのだろう。そんな男が、日本にうまいビールという革命を起こした。コープランドを救いたいというやつはいないようだが、この地にできたビールの復活というのは、この地にいる者からすれば特別なことだということも理解した。
「その情熱に気づき、先行投資をしようとしたのがタルボットか」
 このプロジェクトは、もっと大きくすべきだと私は直観した。そして、商人としての私も復活させることができるはずだ。アドバイザーとして財を成してきたが、やはり商品を売りたいという気持ちは強いのだから。
 私は早速、タルボットがよく行くというパブに足を運ぶことにした。
 パブに行くと、タルボットとアボットをすぐに見つけることができた。アボットは投資家というよりも、横浜のアスリートということで有名になった人物だ。そんな人物も一緒になって、横浜ビールを復活させようとしているのは面白い。
 私は身なりを整え、二人の前に姿を現した。
「こんばんは、はじめまして。面白そうなことをしていると聞きまして」
「グラバーさんもビールに興味が?」
「えぇ、とても。これからの時代、ビールは必ず来ますから。それに、私が関わればもっと大きなプロジェクトにすることができますよ。仲間に入れてもらえますか?」
 丁寧に、腰を低くして近づくというのは、商人の鉄則だ。相手がどんなふうに出てきても、自分のしたいことを押し通すために、私は笑顔を作った。
 タルボットとアボットは顔を近づけ相談をしている。だが見た感じ、タルボットの方が主導権を握っているように見えた。
(落とすならタルボットか? それとも、広告塔になりそうなアボットか?)
 様子を伺っていると、タルボットが私を見て微笑んだ。
「わかりました。ぜひ、グラバーさんも一緒に横浜のビールを復活させましょう」
「ありがとう。タルボットさん」
 無事にタルボット達の仲間として受け入れてもらえることになった。私はすぐに自分にできることを実行した。二人の話を聞いてみれば、もう仮設立趣意書を作り始めているとのことだし、それを配布する日も決めていると聞いた。第一回の重役会もすぐに行われる。今入ったばかりの私が出るわけにはいかない。他のメンバーが受け入れてくれないだろうからだ。何とかして大物の投資家 を捕まえて、それを実績として中に入り込まなくては。
「大物……そうか、こういうときこそ!」
 そこで候補として浮かび上がったのは三菱財閥だ。それに絶対に行けると分かっている商売に手をこまねく者はいない。
「あとはこれを、どれだけ大きなプロジェクトに仕立て上げるかだけだ!」
 私はまずは根回しが必要だと思い動き始めた。その後、7月に重役会が行われ、株式公募が行われたが、ビール市場はまだ小さくリスクが高いと思い込んでいるようで、外国人商人からの応募は思うようには集まらなかったようだ。だが、これは私にとっては好機。私の日本でのビジネス経験と人脈があれば打開できるからだ。
 そのことを伝えると、9月の重役会にはようやく正式に出させてもらえた。そしてそこで私は、経営実務を担当する常任理事になった。

「あらためて、よろしくグラバーさん」
「こちらこそ、タルボットさん」
 そして私は、チェアマンであるジェームズ・ドッズにも挨拶をした。
「これで一緒に働けるな、ジェームズ」
「まさかトーマスとこういう形で共に働くことになるとは思ってなかったがな」
 実はジェームズ・ドッズと私は、旧知の仲だ。彼もスコットランドの人間ということもあり、私が東京に本拠地を移動してから、プライベートな場所で何度も会っている。彼はイギリス系商社の支店長として横浜で働いていたので、彼からこのビールのこともずっと聞いていたというわけだ。
 こうして信頼の厚いジェームズ・ドッズが最高責任者と対外・国際窓口になり、私は現場指揮と日本側への交渉役をすることになった。
 私が参入するまではペーパーカンパニーだったが、私がそれらを一気に動かした。まず、まだ工場地跡の正式な買収交渉がされていなかったため、それらを急いで執り行った。まぁ、動き始めが7月だったので、そこまで進んでいなかったのも仕方がないのかもしれないが、この数か月の間に他の人間が買収交渉をしなくてよかったと思った。
 後は資本だ。横浜居留地に住む者から資本を得てはいるが、今後のことを考えると、まだまだ全然資本が足りない。商売というのは、資本がなければ倒産するしかなくなるということは、身をもって知っている。
 だから私は三菱財閥と渋沢栄一らを誘い、株主として引き入れることにした。
「あとは醸造技師のスカウトもしなければいけないな」
 ジェームズに相談をしたところ、私の采配で決めていいとのことだった。そこで私は自分の人脈を生かして、ドイツから本格的な醸造技師であるフランツ・エックハルトらを日本へ呼び、雇用した。その他、醸造機械、主原料であるホップや麦芽もドイツから輸入するルートを確保した。
「これで、人も、機械も、材料もそろった。ビール開発は技師たちに任せて、商品としてどう売り出すかの検討をする必要があるな」
 と思っていたのだが、まだまだその領域には辿り着けなかった。なぜなら、現場で問題が起きたからだ。ドイツと日本では気候が違いすぎるということ。冷却技術の確保が必要となり、これに莫大な資金を投入した。また、原材料が完全に海外依存ということもあるが、ホップや麦芽を輸送する技術がまだなかったため、どうすればいいのかを考えなければならなかった。さらに、生きた酵母の管理が非常に難しく、何度も取り寄せることになった。そして……
「何!? フランツ・エックハルトが病死!?」
 初代ドイツ人醸造技師だったフランツの急逝で、現場が騒然となった。フランツがいれば、何とかなるだろうと思っていただけに、これが一番痛い出来事と言える。私は大慌てで技師探しを再度行い、ヘルマン・ヘンニガーを呼び寄せた。
 そうしてようやく、商品としてのビールを完成させることができた。私はジェームズに伝えて、重役会を開いてもらう。今回の議題は、私たちのビールをどう売るのかだ。
「ビールの名前はラガービールでいいのではないか? 私たちもそう呼んでいるし」
「いえ、日本市場で普及させるのであれば、日本人に親しまれる名称が必要だと思うのです」
 外国人重役らの意見に私は反対した。ドイツのビールだから、ラガービールでは安直すぎると思っていたからだ。
「だったら、聖獣であるキリン(麒麟)はどうだろうね」
 株主である三菱の荘田平五郎が、ポツリとそう言った。
「麒麟……」
 その名前は、とても素晴らしいように感じ、私はこの名前を押した。すると、他の重役たちも「いいんじゃないか」と好感触だったため、ジェームズ・ドッズは議長として「麒麟」を正式に認めた。
 さらに私はキリンビールの販路として、明治屋の磯野計と日本国内の一手販売契約を結び、日本市場にビールを普及させる基盤を作り上げていった。
 1888年5月。ついに私たちはキリンビールの日本市場での販売を開始。ビールに目を付けてから3年がすぎていた。あまりにも濃い3年。だが、私は充実感を覚えていた。やはり、商人は商人らしく生きるのが一番いい。
 この後も私は、原材料の輸入ルート開拓や、三菱・明治屋との連携強化、経営の安定化に向けた後方支援に徹した。そんな中で転機が訪れたのは1905年だ。初代チェアマンをしていたジェームズ・ドッズらがイギリスに帰国することにしたからだ。その結果、外国人株主の間で、好業績の事業を日本側に高く売り渡して資本を回収したいという意向が出た。またちょうどその頃、市場シェアの約7割を握る巨大企業「大日本麦酒」が誕生し、JBCにも合併を迫ってきたものの、それを日本関係者らが拒否をしたということもあり、このJBCを日本法人化しようという空気が一気に巻き起こったのだ。
 私はすでに66歳になっており、第一線で働くという気概もなく、後方支援に専念しようと思っていたので、その流れの時に重役から身を引いた。
 そして1907年2月23日に香港法人JBCは、日本法人「麒麟麦酒株式会社」に新しく生まれ変わった――。

▶麒麟麦酒株式会社編に続く

《参考資料》
キリンビール歴史ミュージアム(公式)
キリンホールディングス公式オウンドメディア(KIRIN公式ジャーナル)
キリン歴史ミュージアム「ヒストリークルーズ」(公式)
Wikipedia(日本語版)(公式)
キリン歴史ミュージアム「歴史コラム」(公式)

\キリン創業物語の一覧はこちら!/

▼キリン創業物語【第1話|スプリングバレー・ブルワリー編】ビールに情熱をかけたノルウェー人

▼キリン創業物語【第2話|ジャパン・ブルワリー・カンパニー編】タルボットとアボット

▼キリン創業物語【第3話|トーマス・ブレーク・グラバー編】商人という生き方を全うした男

▼キリン創業物語【第4話|麒麟麦酒株式会社編】こうして私は初代になった

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この記事を書いた人

岩本和代

2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。