【主な登場人物】
ウィリアム・コープランド(主役)
タルボット
アボット
トーマス・ブレーク・グラバー
米井源治郎
俺はノルウェーの港町で生まれた。この町は漁業も盛んだけど、俺からするとビール醸造所で働いている人たちが輝いて見える。大きな機械を動かしているのもカッコいいし、ビールを飲みながら「ああじゃない、こうじゃない」と言いながら味の改良をしているなんて最高だ。そして、そのビールは、この港町に住む大人たちが全員飲んでいる。ビールを飲む大人たちは、堅苦しいことは言わないし、いつも大声で笑っていた。それを作っているビール醸造所の人たちを、最高の人たちだと言わずになんだというのだろうか。
「早く大人になりたいなー」
俺は来る日も来る日も、大人になって早くビール醸造所で働きたいと思いながら過ごしていた。そんなある日、アーレンダールでドイツ人の醸造技師キャスパー・ルートヴィヒ・シュトラウスが子弟制度で弟子を募集しているということを知った。
「条件は年齢だけ! 次の誕生日が来たら行ける!」
俺は誕生日を迎えると同時にキャスパーの元に行き、無事に弟子になることができた。そこからの日々は本当に目まぐるしかった。何せ、朝の5時には醸造所に行かなくてはいけないからだ。俺が見ていたのは、昼間に作業をしている姿だけ。こんなに早くから仕事をしていたなんて知らなかった。
けれど、ずっとやりたいと思っていたことができるので、一人前になれるように努力することは全く苦じゃない。俺は醸造師にのめり込んでいった。
そして5年の歳月が過ぎ1853年になり、俺は無事に一人前の職人になることができた。5年という歳月は一般的な期間なので、早すぎるということもなく、遅すぎるということもなく、ちょうどいい長さだ。一緒に弟子入りをした仲間が何人か途中でいなくなってしまったけど、同じように最後まで頑張れたやつもいた。
一人前の職人の称号を得た人たちは、このアーレンダールで醸造師として働く場所を探したり、ノルウェーで探したり、自分で醸造所を作ったりするやつもいた。けれど俺は、もっと大きな場所で自分の力を試してみたくなっていた。
「俺の新天地は自由の国、アメリカだ!」
こうして俺はノルウェーを離れてアメリカに渡り、仕事をすることにした。ただ初めから醸造所で働けるものではないし、まずは市民権を取得する必要がある。そのためにはお金もいる。となると、バイト三昧。
ようやく米国市民権を取得し、ヴィルヘルム・コーラル・コールセンという名前を捨て、ウィリアム・コープランドに改名した。これで俺は、初めから米国人だったかのように見えるだろう。その後もアメリカで仕事をしていたが、中々自分の思い通りにはいかない。やりたい仕事に就くには、どうすればいいのかもわからなくなってきていた。だが、そんな俺に転機が訪れる。
1864年に運送の仕事で、日本の横浜に来ることがあった。10年近くやりたい仕事もできずに、ただがむしゃらにお金を稼ぐ日々で疲れ切っていた俺の目に飛び込んできたのは、美しい横浜の風景だ。もともと港町で育ったので、横浜を見て好きになってしまった。
「ここにはまた来たいな」
それから俺は、仕事以外でも横浜を訪れるようになった。ただこの町は……というよりも、この当時の日本のビール事情は最悪だ。日本ではビールを醸造しておらず、イギリスやドイツから輸入している。しかし輸送に数か月かかるため、日本に着いた時には劣化しているのだ。
俺は本物のビールを飲んでいるし、ビールの醸造師でもある。だから、本当に美味しいビールがどういうものかを知っているからこそ、この味は耐えられなかった。しかも価格も割高だ。高価な金額を支払って、劣化したビールを飲みたいやつなんて、いるのか? とさえ思う。しかし、日本人で海外に行ったことのない人からすれば、この劣化版のビールの味が普通だと思って飲んでいるのだから、不満を言うこともない。というより、こんなにまずいのだから、飲んでも、それを他人に言わないだろうし、もう一度飲みたいとも思わないから流行りもしないだろうけど。
「ドイツビールも、イギリスのビールも、本当はもっとうまいのに」
と、横浜のパブで飲んでいると、イギリスの駐屯軍らしき人物が声をかけてきた。
「お前もそう思うか?」
「あぁ、思う。これはないよ」
「だよなぁ。けど、俺たち軍人はここから離れられないから、こんなまずいビールを飲まなきゃいけねぇんだよ。本当に最悪だぜ」
「駐屯所のやつらも、みんな同じ意見なのか?」
「当り前だろ! ビールを嫌いなやつはいねぇ。しかし、こんなビールじゃよぉ」
「だよなぁ」
そう言いながらも、まずいビールを一気に飲み干した軍人の姿が脳裏に焼き付いた。
それから何度目かの横浜旅行。その頃には、俺の中で一つの願掛けができていた。それは、この横浜で最高の水を見つけることができたら、ビール醸造所を作るというものだ。ビール醸造所を作って、そこでビールを作ることが俺の子どもの頃からの夢だ。だが、アメリカに行ってからは仕事に追われる毎日で、そんな夢もしぼみつつあった。けれど、ここに来てその気持ちに熱がともった。ここで暮らす人たちにも、あの美味しいビールを教えてあげたいんだ! 本物のビールをここで作ることができれば必ずヒットする!
そんな思いを抱えていたので、横浜に来ることの目的がいつの間にか最高の水を探すことになったというわけだ。
「今日は天沼の方へ行ってみるか。あの辺りには深い谷地があると聞いていたし」
そう思って行ってみると、俺が長年探し求めてきた良質な湧水を発見することができた。
「この水だ! この水があれば、上手いビールが作れる。やった、やったぞ!!」
俺はついに求めていた水と出会い、1870年にこの地でスプリングバレー・ブルワリーを創設した。ただ、この時代は電気冷蔵庫がなく冷やすことができない。そこで俺は谷の斜面に横穴を掘り、貯蔵庫として活用したのだ。この横穴のおかげで、1年を通してビールの品質を安定させることができた。
数年ぶりにビールに携われる喜びはひとしおだ。それに職人の資格を取ってから17年の歳月が過ぎていたので、腕が落ちているのではないかと心配したが、何度か行っているうちに勘所を思い出した。
「うん。これならいけるだろう。日本で売られている劣化版のビールよりも数倍美味しい! それに原価がこれぐらいだから……もう少し安く売ることも出来る。これはみんなに喜ばれるぞ!」
そうして俺は、駐屯所の近くにあるパブやホテルにビールを下ろし始めた。試飲をしてもらえれば、絶対に置いてくれるという自信があったので、売り込むのも簡単だ。
「こりゃあ美味い!」
誰もがそう言い、俺が作るビールは圧倒的な支持を得ることができた。仕事も安定したので、俺はアメリカに残していたノルウェー人のアン・クリスティンを1972年に日本に呼び、横浜で結婚式を挙げた。俺がずっとまともな職につけなかったので、苦労を掛けていた女性だ。これからは悠々自適な生活をさせてあげたい。
また同じ年に、ドイツ人技師エミール・ヴィーガントも呼び寄せ、共同経営をすることにした。俺だけでは一つの味しか作れない。だがビールというのは種類がある。これだけ売れているのだから、多様な種類のビールを製造販売できれば、さらなる売り上げを見込めるだろうと思った。ヴィーガントと共同し、ラガー、エール、ポーター、バイエルン風ビールなどの種類を作り上げることができた。これらも飛ぶように売れている。
だが1873年。昨年結婚したばかりのアンが病気で死んだ。
「どうして……これから、幸せにすると誓ったのに……」
アンの身体は元から弱っていたのか、横浜の町の空気が合わなかったのか、その理由は分からない。ただ、ノルウェー時代から、ずっと俺のことを励ましてくれた彼女がいなくなったことで、俺の心はぽっかりと空いてしまった。きっとこの穴を埋めることは二度とないのだろう。
俺は亡きアンに天国から見守ってもらえるように、さらに仕事に精を出すことにした。
1875年。アンが死んでから2年後。俺はノルウェーに一時帰国した。理由は最新の醸造用機械を手に入れるためだ。日本にいると、こういった情報の入手が遅れてしまうのが難点だが、競合相手のことを考えると、日本での商売が一番いいのは明白だ。
「遺留地にいるイギリス人やフランス人たちには一通り知ってもらうことはできたし、そろそろ日本人にも大々的に飲んでもらおう」
そう考えた俺は、翌年、醸造所の隣にある俺の庭を開放し、スプリングバレー・ビヤガーデンを開設した。今までは在留外国人がメインターゲットだったが、ここでは日本人も自由に入っていいという風にしたため、やってきた日本人にもビールを提供した。販売していたのは勿論自社製ビール。ラガービール、エール、ポーター、バイエルン風ビール、ボックビール。それとパンや冷肉。ただ、近隣の飲食店から食べ物を取り寄せたり、つまみの持ち込みも一部OKにした。俺がしたいのは、あくまで自社製のビールが、この価格で、この味だということを知ってもらうことだからだ。
「はぁ……」
ビヤガーデンを作ってから、しばらくは日本市場への進出をどうするかを考えていたが、それどころではない出来事が起きた。共同経営者だったヴィーガントが俺に対して訴訟を起こしたのだ。ビールの売れ行きが良くなったからこその出来事だと言える。訴訟で頭を悩ませている俺の前に、梅子が現れた。彼女は俺がよく行く寺の住職の娘だ。寺の境内は落ち着くため、何度か足を運んでいるうちに、彼女が寺でお茶を出してくれるようになったのだ。
「まーた難しそうな顔をしてる。ここにいる時ぐらいは、笑顔っていつも言っているでしょ」
梅子はこんな感じで、俺の心を安らげてくれた。アンを失ってから、もう誰とも結婚をすることはないと思っていたが、彼女がいてくれれば頑張れる気がした。
1880年、アメリカ総領事館の下で行われた裁判で、俺は勝訴。だが裁判での費用がかさみ、醸造所の経営状態は悪くなった。梅子はそれでも俺の助けになりたいということで、そんな中でも結婚をしてくれた。だが、それですべてが片付いたわけではない。ヴィーガントとの裁判が終わったと思ったら、次は事務員から訴訟を起こされたのだ。
このままではまずいと思い、1881年に日本語による新聞広告を出し、日本人向け市場への進出をした。とにかく売り上げを出さなければ、経営困難になってしまうと思ったからだ。本当はもっと練ってから、日本人向けのビールの販売を開始したかったが、そうも言ってられない。
事務員からの訴訟は、給料の未払いによるものだ。ヴィーガントとの訴訟で資金繰りが厳しくなっていたので仕方がなかった。だが、雇われている側からすれば、それを理解しろというのが無理だったのだろう。裁判では事務員の方が勝訴し、俺は支払いを命じられた。しかし、そんな資金は何処にもないので、借金をすることに……。俺は多額の負債を抱えることになった。
そんな中、日本政府によるデフレ政策(通称松方デフレ)が始まった。
「なんでこんな時に限ってデフレなんて……!」
デフレにより、嗜好品であるビールの売り上げがみるみる間に落ちていった。
「資金はなくてもビールの売り上げがあれば、何とか持ち直せるのではないかと思っていたのに……」
さらに、この時期になり、小規模な醸造所がいくつかできていた。俺が日本で初めてビールを作ったのを見て、需要があると思い参入してきたのだろう。ライバル店との価格競争も始まり、いよいよ収益が完全に途絶えた。
「……もう、破産宣告をするしかない」
それは1884年のことだった。負債の返済が不可能になったことを告げ、俺は翌年、醸造所の土地、建物、設備は一括して競売にかけられることになった。
「梅子……こんな結果になってしまい、申し訳ない」
「いいえ、これも運命だったのでしょう。受け入れましょう」
「……ありがとう」
俺と梅子は、その後移住地を横浜からスペイン領であるグアムに移した。横浜では色々あり過ぎた、というのもある。そこで4年ほど雑貨屋を営んでいたが、体調を崩し、医者にはあまり長くは生きられないと言われた。
「ねぇ、あなた。横浜に戻りましょう?」
「だが……」
「横浜にはアンさんのお墓もあるし、あなたが夢を叶えた場所でもある。それに、ビールのことも気になっているでしょう?」
俺は最後まで梅子には敵わないと思った。梅子に従うような形で、俺たちは再び横浜に戻る。そして、1908年。俺は病死し、横浜の久保山墓地に埋葬されたのだった。
《参考資料》
キリン歴史ミュージアム(公式)
キリンビール 120年史 / 100年史(公式)
横浜外国人墓地(公式)
横浜市中区役所「中区の歴史」(横浜市)(公式)
神奈川県立公文書館 デジタル資料(神奈川県)(公式)
\キリン創業物語の一覧はこちら!/
▼キリン創業物語【第1話|スプリングバレー・ブルワリー編】ビールに情熱をかけたノルウェー人
▼キリン創業物語【第2話|ジャパン・ブルワリー・カンパニー編】タルボットとアボット
この記事を書いた人
岩本和代
2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。
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