キリン創業物語【第4話|麒麟麦酒株式会社編】こうして私は初代になった

岩本和代

【主な登場人物】
ウィリアム・コープランド
ウィリアム・ヘンリー・タルボット
エドガー・アボット
トーマス・ブレーク・グラバー
米井源治郎(主役)

 1861年10月に岡山で生まれた私は、20代前半の頃に上京し、慶應義塾に在籍していた。この大学には、またいとこの磯野計という3つ上の親戚がいて、私が1年の時に少し挨拶をした。慣れない土地、学校で知り合いが1人でもいるというのは、とても心強いものだ。そして、磯野計が大学を卒業した後、1年ほどで明治屋という商店を横浜で作ったと聞いた。在学中から、頭の切れる人という印象が強かったので、商店を作ったと聞いても、そうだろうな、としか思わなかった。けれど、話しはそれだけでは終わらない。
「源さぁ、ちょっと仕事を手伝ってくれない?」
「僕が? でも僕、まだ3年で学生だよ」
「今人手が足りなくてさ。バイトする感覚でいいから。な、やってくれよ」
「……計ちゃんが、そう言うなら」
 こうして私は、学生の時から明治屋を手伝うことになった。当時の明治屋の主な仕事は、船舶納入業だ。横浜港に出入りする外国の客船や軍艦に対して、後悔に必要な食料品やお酒、日用品や雑貨などを買い付けて販売するというもの。外国船が主な仕事相手だったので、英語で会話をするのは日常だったし、日本では見られないような海外の珍しい高級缶詰や洋酒なども見ることができた。
(東京や横浜というだけで、凄く開けた世界が見えたと思っていたのに、まさか本当の世界の商品まで見ることができるなんて。これも計ちゃんのおかげだな)
 初めは軽いバイト感覚だったものの、だんだんと明治屋で働くことが楽しくなり、大学を卒業とともに、明治屋に就職をすることにした。1887年のことだ。
「そうだ、源。グラバーという男を知っているか?」
「グラバーって、グラバー商会の? だけどあそこはもう潰れたんじゃなかったっけ?」
「あぁそうだ。けどな、今、彼は横浜にいるんだ」
「え、そうなの?」
「彼らと近いうちに、一緒に仕事をすることになるかもしれない。一応、心の準備だけしておいてくれ」
「……わかった」
 私は磯野計がグラバーの名前を出したということは、下調べぐらいしておけという意味だと思いすぐに調べた。彼はジャパン・ブルワリーという香港籍法人で役員をしていた。トップは別の人間らしいが、調べてみると色々と面白そうな会社だ。
「ここと関われるかもしれないのか……。え、というか、計ちゃんってグラバーさんと知り合いってこと!?」
 今さらながら、磯野計の凄さを再認識した夜だった。

 それから1年が過ぎ、三菱財閥が巨額の個人保証人になり、明治屋はジャパン・ブルワリーが販売するビールの独占権を手に入れた。
「まさか本当にビールを売ることになるなんて。去年、計ちゃんに言われてジャパン・ブルワリーについては調べていたけど、規模が大きすぎるよ」
「だけど、やりがいはあるだろ。向こうは外国人居留地の外でビール販売をすることを禁止されている。そこを俺たちが引き受けて、日本国内で販売するんだ。ビールの出荷・販売、代金回収にいたるすべてのリスクは背負っているが、キリンビールは絶対に売れる!」
 磯野計は力強く断言をした。これが公式の場であればひんしゅくものだが、社内でサンプルのキリンビールを2人で飲んでいる時なら、誰も咎めない。それに、そう言い切る姿は、とてもカッコよく見えた。
「でもこれからどうするの?」
「もちろん売るさ。日本中で、キリンビールという名前を知らない人がいないぐらいに有名にしたいからな」
 次の日、キリンビールをいかにして売り出すのかという会議が社内で行われ、やるなら派手にやろうという話でまとまった。とはいえ、まずは東京で知ってもらう必要がある。この当時、広告を打つとなると、新聞広告に出すというのが一般的だった。だがそれだけでは、全員に知ってもらうのには時間がかかりすぎる、という問題がある。
 そこで行ったのが「張り子の騎兵隊」だ。張り子の馬を人間がかぶり、その後ろに軍隊風の衣装を着た人物が歩き、疑似的に騎兵隊を作った。この騎兵隊たちが楽器を鳴らしながら銀座などの繁華街を大行列で練り歩いたのだ。張り子の馬には「キリンビール」と書かれている。これは日本におけるパレード広告の先駆けともいえるPR方法だった。結果としては、物珍しさもあり、キリンビールの名前は東京都民の脳にインプットすることに成功した。
「すごいよ、計ちゃん! 僕も自分にできることを、してみるよ!」
 磯野計の凄さを目の当たりにして、私はこれまで以上にやる気を出した。私がしたことは、地方特約店のネットワークの構築だ。つまり日本全国のどんな場所にでもビールを届けることのできる、流通システムといえる。私は自ら地方を巡り、各土地の酒問屋や洋酒商へ行き、サンプルのキリンビールを持って訪れた。キリンビールという名前を知っている人が少なかったとしても、キリンビールを一口飲めば絶対に店に置きたい、取り扱いたいという店がほとんどだという自信はあったからだ。同じドイツの酒造技師が作っていても、輸入されてくるビールよりも、横浜で作られたビールの方が新鮮だし、輸入コストもないのだから、お客さんからすれば「安くてうまい酒」という認識になるからだ。そうやって全国を周りつつ、代金回収の仕組みも徹底的に統括をした。
 これからもトップは磯野計。そして右腕として私がいる、という状況を続けていけると思っていた矢先、1897年11月。磯野計は39歳という若さで急逝した。そして、さらに悪い事は続く――
「明治屋との独占販売権の契約は、天才的な実業家であった磯野計個人の信用があったからだ。磯野が亡くなった今、明治屋にこれほど巨大な商売を維持する信用も資金力もないだろう。契約は白紙に戻し、別の強力な販売先を探す予定だ」
 と、ジャパン・ブルワリーは突然宣告してきたのだ。磯野計が急に亡くなったことで、明治屋としても誰がトップになるのか、これからどうしていくのかを揉めているさなかに、この宣告は衝撃的だった。今や明治屋にとって、キリンビールの売上は会社を支える大黒柱。これがなくなってしまえば、倒産は確実と言える。
「計ちゃんが作った明治屋を、ここで潰すわけにはいかない……!」
 ジャパン・ブルワリーが一番心配しているのは、資金力だということは明白だった。となると、これをバックアップしてくれる後ろ盾が必要になる。
「確か計ちゃんは、生前三菱財閥と深いつながりがあったはず。そこのルートを辿れないだろうか。今の最高幹部は豊川良平か。彼を動かすには……」
 私は色々と案を練り込み、何とか豊川とのアポを取り付けることができた。

「今日はお時間を頂き、ありがとうございます」
「いやいいよ。磯野とは深い関係だったし。神様も酷いことをさせるね。あんな素晴らしい人間を、さっさと退場させてしまうんだから」
 そう言いながらも、豊川は私を値踏みするような目で、じろりと見てくる。私が次にどんな手でくるのかを推し量っているのだろう。彼もまた、慶應義塾を卒業しており、私は後輩という立場だった。今回の面会が実現したのも、私が慶應義塾を卒業していたから、というのもある。
「今日はプレゼンをしに来ました」
「プレゼン?」
「はい。当社が取り扱っているキリンビールは将来有望なブランドです。それを外国人の気まぐれで他社に販売権を渡してしまえば、キリンビールのブランドが落ちてしまいます。当社は必ずこれまで通り売り続けますので、その信用を御社に保証してほしいのです。どうか、お願いできないでしょうか?」
 私は助けてほしいとは言わず、ビジネスとしての利を理路整然と説くことにした。
「聞けば、地方の販路開拓は米井君が先導を切ってやっていたそうだね。実務面での君の評判がいいのは知っている。これまでは天才が上にいたから、君が上に立って動くことは出来なかっただろうけど……私はこれでも楽しみにしているんだよ」
「それはつまり……」
「あぁ、米井君。君の後ろ盾になろう 」
「ありがとうございます!!」
 こうして私は豊川の信頼を得、改めてジャパン・ブルワリーに話し合いの場を設けてもらった。明治屋には資金力がないから不安だと言っていたジャパン・ブルワリーだが、保証人の名前の欄に、日本の経済界を揺るがす三菱の幹部たちの名前がずらりと並んでいるのを改めて見て、独占権の維持を正式に認めてくれた。そしてこのことで、私は社内でも認められるようになった。

 私は今回のことで、自分自身の信用というものもビジネスにおいては必要なことだと学んだ。この先何が起こるか分からない。それを回避させる目的もあり、1898年には機械輸入貿易商社の米井商店を創業し、1900年にはゴム製品の製造を行う明治護謨製造所 を創業した。そして1903年に、私は正式に明治屋の二代目社長に就任したのだ。その頃には、ジャパン・ブルワリー社から、私なしでは日本国内でビールを一本も売ることは出来ないとまで言われるほど、強固な関係を築き上げることができた。
 何もかもが順調に進んでいる……そう思っていたが、いつも問題は突然起こる。1906年に大日本麦酒株式会社が誕生したからだ。当時の3大ビール会社である、札幌、エビス、アサヒが合併し、市場シェアの約70%を握る巨大独占企業となった。この会社の社長は馬越恭平だ。彼は市場を完全独占するため、残りの30%を握る私たちにも声をかけてきた。
「やぁ、米井社長。私たちの噂は聞いていると思うが、どうだろう? キリンビールの販売権をうちに買収させてくれないかな?」
「……」
「私はね、完全独占を成功させたいんだよ。買収といっても、そんなに安い金を支払うつもりはない。多少の色を付けて買収させてもらうよ。まぁでも、米井社長がダメだと言っても、ジャパン・ブルワリーのジェームズ・ドッズ会長がOKと言えば、それでいいんだけどね」
 馬越はそう言って、不敵に笑って立ち去った。私が簡単には首を縦に振らないことが分かったからだろう。そして、ジャパン・ブルワリーのトップであるジェームズ・ドッズ会長が高齢ということもあり、事業を大日本麦酒に売却して、イギリスに帰国するのもありなのかもしれないと思い始めている、という情報を得た。
「これはまずいことになったぞ。うちからキリンビールを切り離すなんて考えられないし、ビールの市場が完全に一社に収まってしまうのも、よくないことだ。しかし、どうすれば……。こんな時、計ちゃんだったらどうしていた……?」
 私は亡き磯野計との会話を反芻していた。彼との会話は、私にとってはかけがえのないものばかりだ。上京してすぐに慶應義塾で声をかけてきてくれた計ちゃん。そしてその後、バイトに誘ってくれて、気が付けば彼の右腕になり、今や社長だ。故郷で生活をしていた時には、まさか自分がこんなところに立つことになるなんて想像もしていなかった。私は彼とは違い、天才肌ではない。だから地道な積み重ねという手段でしか、ビジネスができないのだ。でも、今は……。
「大日本麦酒にジャパン・ブルワリーが買収されるというのなら、私が……!」
 私は急遽、内々でジェームズ・ドッズ会長にアポイントを取った。

「大日本麦酒株式会社から買収の話が来ていることは知っています。そして、会長が故郷へ帰ろうとしていることも。であれば、これまで最も貢献してきた我々明治屋に事業を譲渡してくれないだろうか」
「米井社長……。あなたの熱い想い、確かに受け取りました。あなたに優先交渉権をお渡しします。しかし、操業状態の事業です。買収額は数百万ウォン(現在の数百億円)ですが、買い取れますか?」
 私は少しだけ時間をくださいとだけ伝え、磯野計が亡くなった時に頼った、三菱財閥の総帥に連絡を取った。以前は二代目だったが、今は三代目岩崎久弥という人物に変わっている。それでも臆することなく、私はキリンの優れた設備とブランドを大日本麦酒に買い取らせてはいけないこと、私たちが買収し、日本人の手による新しい麒麟麦酒株式会社を設立させること、三菱が資本を出してくれれば、販売はこちらですべて責任を持ってするということを伝えた。その結果得られた資金で、ジャパン・ブルワリーを買収し、1907年2月についに私たちは麒麟麦酒株式会社を設立させたのだ。これがキリンホールディングスという名前に変わり、今もビール業界の大手として君臨している。

【あとがき】
キリンホールディングスの創業話を書くにあたって、他の企業とは違い、本当に多くの人たちが関わっているということもあり、どう書くのかに悩みました。4話の中ではそこまで描くことのできなかった、ジェームズ・ドッズや磯野計、この2人もキリンホールディングスを語る上では重要人物です。もし気になったら、2人についても調べてみてくださいね。

\キリン創業物語の一覧はこちら!/

▼キリン創業物語【第1話|スプリングバレー・ブルワリー編】ビールに情熱をかけたノルウェー人

▼キリン創業物語【第2話|ジャパン・ブルワリー・カンパニー編】タルボットとアボット

▼キリン創業物語【第3話|トーマス・ブレーク・グラバー編】商人という生き方を全うした男

▼キリン創業物語【第4話|麒麟麦酒株式会社編】こうして私は初代になった

《参考資料》
キリンビール歴史ミュージアム(公式)
キリン歴史ミュージアム コラム「歴史の人物伝:米井源治郎」(公式)
キリン歴史ミュージアム コラム「歴史の人物伝:磯野計」(公式)
明治屋の歩み・歴史アーカイブ(公式)
三菱グループサイト「三菱の歴史・キリンビールと三菱」(公式)

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この記事を書いた人

岩本和代

2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。