代表取締役社長になり、精機光学工業株式会社に行く頻度も増えた。私は技術も経理も何もわからない素人だ。そんな私にできることが本当にあるのだろうかと、会社に行く前は本気で思っていた。内田の熱意に押されて社長になったものの、やはり早計だったのではないかと思わない時はないぐらいだ。しかし、実際に会社の中に入ってみると、驚かされることばかりだった。
【主な登場人物】
主人公・御手洗毅(医師家系)
吉田五郎(小さなころから精密機械の解体が好きだった)
内田三郎(吉田の義弟で元證券マン)
前田武男(山一證券での内田の元部下)
「これは本当のことなのか……?」
戦時下ということもあり、精機光学工業ではカメラを自由に売れない苦境に立たされていた。だが内田は、社員を路頭に迷わせないようにしてくれと私に伝えた。そういうことなら、まずは経営状況をちゃんと把握しなければいけないと思い、経営幹部からヒアリングし、資料も読み漁った。その結果分かったことは……。
「ここまでいい加減なやつらが存在するのか。悪い夢でも見ているようだ」
幹部は会社の経費を私的に使っていたり、身内に甘い汁を吸わせるようなことをしていたりしていたのだ。内田は元々経理畑だったため計算に強い。だから幹部が私利私欲に走っていることは知っていたはずだ。それとも、それ以外の開発や販売などの方が忙しくて、疎かになっていたのだろうか。また内田は山一證券出身の有能な人材として、国や軍からも個人的に仕事が来ていたため、常にオーバーワークだったのだろう。
「しかし、ここまで酷いとはな。これが医療業界だったら、医療ミスが何度起こっていたか分からないぞ。全てを正すところから始めないと。あまりにひどい不正をしているやつや、怠惰なやつは刷新をしていかないと。しかし現場の声も、もう少し知ってから行動したい。こういう時はどうすれば……」
その時、内田が言っていた、前田という男の存在を思い出した。前田は内田が山一證券で働いていた時の部下で、精機光学工業が株式化した時に営業部長になった人物だ。私は直接話したことはないが、内田の話の中には時折「前田」の話が出てきていた。それほど内田にとって、前田は信用のできる男だったということだろう。
私は思い切って前田を呼び出し、ヒアリングをすることにした。
「御手洗社長、お呼びでしょうか?」
社長室に入ってきた前田という男は、一目見て信頼できる人間だということが分かった。これまでちゃらんぽらんな幹部ばかりと話をしていたので、あまり期待はしていなかったのだが、内田が何度も話に出していただけのことはあった。
「急に呼び出して悪いね。この会社のことをよく知っている人間から話を聞きたくて」
「私に、ですか?」
「そうだよ。私は精機光学工業に勤めている社員たちを路頭に迷わせないようにする責任があるからね。そのためには、切り捨てるものは切り捨て、正しい方向へと導く使命があるんだ。だがそれをするためには、客観的な視点を持って周りを冷静に分析できる人間が必要だ。君の視点からの話を聞かせてくれるね?」
「……仰せのままに」
こうして私は精機光学工業から、いわゆる「古い体質」を排除し、節理のある経理、正しい勤務をすることを徹底した。切られた人間、降格された人間は不平不満を言っていたし、現場の混乱もあったが、それでもこれはすべて清廉潔白な会社にするためには必要なことだった。そしてすべての社員を集め、私はこう宣言した。
「この会社を反映させるためには、全員が誠心誠意やるしかない。いい加減なことは一切許さないから、そのつもりでいるように」
その宣言の通り、そこから精機光学工業は変化していった。ただ、相変わらずカメラは売れない。その上、軍からの要請によって、防毒マスクや光学兵器の開発をするように迫られ、そういったものを作らなくてはいけなくなった。だが、軍用の物を作っているからこそ、倒産を免れているという背景もあるため、背に腹は代えられない。
「他にも何か……私だからできることはないだろうか。そうだ、あれがある!」
企業の社長であっても、私はまだ開業医でもある。意思としての経験を活かせるものはないかと考えた時、X線間接撮影カメラ(レントゲンカメラ)を思い出したのだ。これは、私がまだ監査役だった1940年に精機光学工業が作り、1941年から一般販売を始めた初の日本製のものだ。医療の現場でも海外製のものがほとんどだったのを変えたくて、研究員に相談をし、開発してもらったものだ。
「このカメラの改良にも、もう少し力を加えるようにしよう」
そしてまた、この当時から前田は私のサポートをするようになっていた。私が社長業と開業医の二足のわらじで動いていたため、前田の存在はなくてはならない存在である。初めは社長業と開業医の二つを同時に行うことに苦労をしたが、だんだんとこの状態にも慣れていった。だが悲劇は突然起こる。
1945年。東京大空襲により、なんと私の御手洗産婦人科病院が全焼したのだ。
「う……嘘だと言ってくれ……。俺の……俺の病院が……」
私は全焼した病院を前にして、膝から崩れ落ちた。だが、燃えてなくなったのは、私の病院だけではない。周りを見てみれば、一面焼け野原だ。空襲によって亡くなった人間も多い。この惨状の中、私にできることはなんだろうか。病院を立て直して、人のために生きるのか……いや違う。
「敗戦後の日本再建に必要なのは産業だ!」
こうして私は医師を辞め、ついに精機光学工業の社長業だけに人生を費やす決意を固めたのだった。翌年、私は社員を家族のように大切にするという経営理念を掲げた。空襲の惨劇を経験し、これまで当り前にあると思っていた食料がなくなるという現実を目の当たりにしたからというのもある。何かあった時に食料を配れるようにするため、自社農園を作ったのだ。
物を開発しなければいけない。物を流通させなければいけない。というのは、経営者として大事なことだが、やはりそこで働くものがまず健康であるべきだ、というのが私の考え方だったからだ。そんな私の姿勢が社員たちとの絆をより深めてくれたように思う。そしてーー
「御手洗!」
「内田!」
戦争で海外に行っていた内田が無事に戻ってきたのだ。私たちはお互いにあったことを、酒を交えて話し合った。
「いや、まさか御手洗が医師を辞めて、精機光学工業の経営者としてだけ奮闘しているなんてな、驚きだよ」
「俺もまさかそんなことになるとは思っていなかった。だが、内田が戻って来たんだ。俺は――」
「待て。それ以上は言うな」
「内田?」
「精機光学工業は、もうすでに俺がいた頃の精機光学工業じゃない。お前が作り替えた、素晴らしい企業になっている。だからこのまま社長としていてくれ」
「いやしかし……内田はそれでいいのか? 好きで海外に行っていたわけでもないのに」
「あぁ、俺は引退した身だ。だが御手洗社長が雇ってくれるなら、精機光学工業のために頑張りたい気持ちはある。どうだ、俺を雇ってくれないか?」
「そんなの……当り前だろ!」
こうして内田は、精機光学工業で監査役という役職に着いた。以前は私が監査役だったのを考えると、立場が完全に入れ替わったということになる。内田は以前の経験や人脈を生かし、海外展開への貢献をしてくれるようになったのだった。
そんな背景もあり、私は社名変更を打ち出した。1947年に精機光学工業株式会社からキヤノンカメラ株式会社に変更し、世界進出を本格化させたのだ。
そしてさらに3年後の1950年。私は単身でニューヨークに来ていた。キヤノンのカメラは品質改善も進んでおり、日本製のカメラとしてどこまで世界に通用するのかを見てみたいと思っていたからだ。客観的に見ても、うちのカメラの品質はかなりいい。これなら絶対に通用するはずだ。そのためには、有力な販売パートナーを探す必要がある。そう思い、さまざまな企業を訪れた。
そして辿り着いたのはB&H社だ。この会社は全米最大の映画機材メーカー。こことの提携ができればいいのだがと思っていたが、こんなことを言われてしまう。
「品質はいいが、日本製の『Canon』という無名ブランドでは売れない。我々の『ベル・アンド・ハウエル』という名前を付けて売る(OEM供給)なら、扱ってやってもいいぞ」
それは名前を変えれば大量注文をしてくれるということだ。大手から大量注文が来るようになれば経営は安定するだろう。だが、私はその提案に乗ることは出来なかった。なぜなら、血の滲むような思いで開発してきた製品を、他人の名前で売らないといけないなど冒涜に過ぎないと思ったからだ。そもそも私は医師時代から、自分の責任で、自分のブランドで勝負をするのが当たり前だと思っていたから開業医になったのだ。
「そうですか。申し訳ないが私は一国一城の主でありたい。城を売ることはできない。提携の話は破談ということにしましょう」
そう言って私は、B&H社を立ち去った。でもこのことがあったから踏んばれたというのもある。一度名前を貸してしまえば、一生彼らの下請け工場で終わってしまう。たとえ今は売れなくても、10年、20年かけて『Canon』を世界ブランドに育てるという気持ちになったからだ。そして、それは数年後には実現できた。品質の高さが認められるようになり、Canonの名前が米国で定着したのだ。そして、あの時OEMを言ってきたB&H社もCanonという名前のままで販売させてほしいと頼み込んできた。私の決断は間違っていなかったということだ。
海外進出も進み、経営も順調に進んでいったある年のこと。常務に昇進していた前田と経営のことで話をしていた時だった。
「前田常務。少し顔色が悪くないか?」
「すみません。ちょっと、このところ業務が立て込んでいまして、まともな休みがとれていないんです。常務なのに体調管理もできないなんて情けないですよね」
私はこの前田常務の言葉に引っかかりを覚えた。
「いや、待て。前田常務。丸一日休んだのは、最近だといつだ?」
「丸一日ですか? ……ちょっと思い出せないですね。ですが、今は高度経済成長期ですし、我が社もまだまだ発展していかなくてはいけない時期なので、そんなことはーー」
「それではダメだよ」
「え?」
「……きっと我が社には、前田常務のような考え方で働いている社員が多いのだろうな。これは早急に何とかしなければいけない」
この時代、24時間働くことが美徳とされていたため、残業は当たり前、休日出勤も当たり前という風潮があった。しかし私は、医師だったということもあり、そんなことを続けていれば健康被害が出るのは目に見えていたし、何より許せなかった。人間は機械ではなく、生きている生物だ。労働環境を整えることも、トップに立つものとしてしなければいけないことだろう。
「よし、決めた。完全週休二日制を導入するぞ」
「えぇ!?」
私のこの発言が現実のものになるまでには、多少の時間がかかった。世間に対して発表をしたのは1967年。そして実際に実施を開始したのは1969年だ。今でいうブラックな働き方が当たり前だった時代に、初めてメスを入れた労働方法だったと言える。だが私が休みを制定したことで、社員たちは効率的な働き方を模索するようになったし、自分の時間、家族との時間を作れるようになった社員たちの中に余裕が生まれるようになった。生産効率も自然と上がっていったため、他の企業も完全週休二日制を導入するようになった。
さらに1967年には、キャノンのカメラメーカーという印象を壊し、総合情報機器メーカーへと脱皮した。カメラが売れなくなってきたためにそうしたわけではなく、いつまでもカメラ1本で進んでいくのは危険だと判断したからだ。
他社が参入してくるには専門性が高すぎる業界なので、今あるカメラメーカーだけで今後も戦っていくことにはなる。しかし、世の中がカメラを求めなくなったらどうなるのだろうという考えが頭をよぎったのだ。主力となる商品の種類は多いことにこしたことはない。他の商品も作れるメーカーになれば、倒産のリスクを落とすことができるだろう。
それからも私は経営者として突き進んできた。そして1974年。私が73歳の時に、32年間にわたる社長の座を、ずっと傍で奮闘してくれていた前田に譲った。私は会長という役にはなったが、前線から退いたということだ。
「お疲れ様、御手洗」
「まさか、お前から誘ってくれるとはな」
社長交代の発表をした翌日、私は内田に呼び出された。場所は昔よく二人で行っていたバーだ。
「このバー、まだ残っていたんだな」
「多忙な御手洗元社長は知らなかっただろうが、俺はずっと常連だ」
「何の張り合いだよ、それは」
内田と乾杯をし、ウイスキーを体内に流し込む。身体がカッと熱くなり、生きている実感を持つことができた。
「……長いようで、短いような時間だったよ」
「おやおや、もう隠居気分か? 御手洗会長さん」
「怖いねぇ、内田監査は。こんな歳になってもまだ、俺を働かせる気だ」
「仕事に終わりなんてないからな。それでもここまでやってくれて、俺には感謝しかないよ。ありがとう」
「ふん、友人として当然のことだ」
この10年後。私は心不全で亡くなるのだが、それまで会長として後継者の育成や文化の継承をしていった。医師家系の五男坊として生まれた私の数奇なる人生が、今もどこかで何かに繋がっていることを願う。
―――――
筆者あとがき
Cannonの創業物語を書くにあたって、どの部分を膨らませようか、誰の視点で書くのがいいのかと考え、迷いました。Cannonは様々な人の手によって作られているからです。ただその中で、御手洗社長視点で内田専務との関りを描くのが面白いかもしれないと思い、今回のように創作いたしました。実際にこういった会話があったかどうかはわかりませんが、こういう友人同士の語らいがCannon創業の裏にあったかもしれないと思うと、ロマンがあるように思いませんか?2人のお話を楽しんでいただけたら幸いです。
【参考資料】
キヤノン株式会社 公式サイト「キヤノンの歩み」
ドリームゲート「偉人たちはどう動いたのか?(キヤノン編)」
日本経済新聞「私の履歴書(御手洗冨士夫)」
企業家ミュージアム「御手洗毅 ─ 医師から転身、キヤノンを世界企業へ」
社長のミカタ「偉人の言魂(御手洗毅)」
この記事を書いた人
岩本和代
2016年よりフリーのライターとして活動中。 インタビュー取材、シナリオ執筆を得意としており、幅広く執筆をしている。



















