2001年、秋。
東京、霞が関。
総務省の一室で、ある日本企業の社長が、役所の担当部長の机を激しく叩いていた。
「インフラ開放を認めなければ、ここでガソリンをかぶって焼身自殺する」
孫正義、44歳。ソフトバンク社長。
1年と少し前まで、彼は時価総額21兆円超の会社を率いる、日本一の富豪だった。
しかし、この1年で個人資産の9割が消えていた。
始めたばかりの高速インターネット事業は、毎月十数億円の赤字を垂れ流している。
NTTの局舎工事は、数ヶ月たっても進まない。
赤字は月ごとに膨らみ、上場廃止という言葉が、社内で現実味を帯び始めていた。
目次
第1章 鳥栖の煙、16歳の家出
1957年8月、佐賀県鳥栖市。
町外れに、貧しい朝鮮人集落があった。
トタン屋根、共同井戸、豚小屋。
風が運んでくるのは、密造酒を仕込む酸い匂い。
そこに生まれた赤ん坊に、父・三憲は「正義」と名付ける。
読み方は「まさよし」。
在日韓国人3世、四人兄弟の次男だった。
三憲の家業は密造酒の仕込みから始まり、消費者金融、そしてパチンコ店経営に行き着いた。
パチンコ店経営は順調に行き一時は数十店舗を構え、高級車を何台も並べた時期もある。
だが、家計が安定したことは一度もなかった。
正義が中学生のころ、父が病で倒れ1歳上の兄・正明は、高校1年で中退して家を支えることになる。
その日から家のなかで学校に通うのは、正義ひとりになった。
当時孫家は、公の場では通名「安本」を名乗っていた。
在日の家が日本で生きていくときは、それが普通になっていたからだ。
しかし「孫」を名乗りたい。
正義は親戚の猛反対を受けながらも譲らず、孫の姓を名乗るようになっていった。
本人は後年、こう語っている。
「たとえ十倍難しい道であっても、俺は人間としてのプライドを優先したい」
学生時代の正義は本を読む少年だった。
15歳で司馬遼太郎『竜馬がゆく』に出会い、何度も読み返した。
久留米大学附設高校に進んだ頃には、日本マクドナルドを創業した藤田田の『ユダヤの商法』を、貪るように何度も読み返していた。
成績は学年200人中、30番。
九州でも有数の進学校で上位に食い込んでいた。
このまま順当に進めば、難関大学も夢ではなく、九州で堅い職に就き、生涯安泰に暮らす──そんな未来が、目の前に広がっていた。
そんな少年が、ある日、東京・新宿の社長室にアポなしで押しかける。
相手はあの藤田田だ。
『ユダヤの商法』を書いた藤田田本人に、これから自分はどんな商売をすべきかどうしても訊きたかったのだ。
藤田は、その高校生を追い返さず、短い時間を割いて、こう告げた。
「私が若ければ、食べ物の商売をしないで、コンピュータに関連したビジネスをやると思う」
正義の将来を決める一言だった。
九州に戻った正義が、学校に提出したのは退学願いだった。
休学ではない。
戻る場所を、自分で潰した。
そして1974年、16歳。単身、太平洋の向こうへ渡る。
日本語の通じない国に、彼は降り立ちカリフォルニアにある英語学校に入学。
やがてサンフランシスコの高校に編入し、2年から3年、4年と飛び級していく。
大学検定試験では、英語のハンディを埋めるために、州知事に直訴し辞書の持ち込みと、試験時間の延長を勝ち取る。
1977年にはカリフォルニア大学バークレー校の経済学部に、3年から編入する。
「人生五十年計画」
19歳のときに正義が書き上げた人生の予定表だ。
20代で名乗りを上げる。
30代で軍資金を1,000億円貯める。
40代で大勝負をかける。
50代で事業を完成させる。
60代で事業を後継者に引き継ぐ。
このメモを、彼は後年まで毎年印刷し直しては、持ち歩き続けている。
そして22歳。
バークレー在学中の正義は、教授たちと協力して「音声機能付き多言語翻訳機」の試作機を完成させた。
夏休みに、それを抱えて日本に帰り家電メーカーに営業をかけるのであった。
しかしほとんどの家電メーカーは相手にもしてくれない。
なかには侮辱的な対応もあったという。
正義は、米国の勉強会で出会ったSHARPの技術者を思い出し、公衆電話からアポを取り、父・三憲を伴って大阪へ向かう。
会いに出てきたのは、専務の佐々木正──電卓でSHARPを世界企業に押し上げた技術者だ。
佐々木は後年、その日の正義をこう振り返っている。
「まだ少年の面影を残した彼が、アイデアを買ってほしいと売り込みにきたんです。説明の最中も、目の輝きが異様に鋭い。『これはただものではない』と感じました」
英語版翻訳機の開発費2,000万円──佐々木は、その場で出資を決めた。
特許契約金は4,000万円。
追加開発を含めて計約1億円
22歳が握った札束は「軍資金1,000億円」の千分の一でしかなかった。
だが確かな1歩だった。
第2章 リンゴ箱の上の宣言と、3年半の病室
2年が過ぎ、1981年9月3日。
福岡市の南、西鉄沿線の雑餉隈。
24歳になった孫正義は、古い雑居ビルの2階で「日本ソフトバンク株式会社」を旗揚げする。
社員は、アルバイト2人だけだ。
朝礼の時刻。
孫は床にリンゴ箱を2つ並べ、その上に立つ。
見上げる2人に向かって語りかける。
「わが社は売上が5年後に100億円、10年後に500億円になります。そして30年後には、豆腐屋のように、売上を一丁(1兆円)、二丁(2兆円)と数えるような会社にします」
2人はポカンと口を開けたまま、孫を見上げていた。
そして一週間も経たないうちに、2人とも、いなくなった。
リンゴ箱の上の男は、ひとりになった。
ひとりになっても孫は止まらない。
秋になると東京と関西を行き来していた。
最初に向かったのは、ハドソン。
家庭用ゲームソフトで国内シェアの9割近くを押さえていた会社である。
応対したのは、専務の工藤浩、27歳。
孫は名刺を差し出して、こう切り出した。
「僕は天才です。ソフトウェア流通網で日本、いや世界を制覇したい」
工藤は後年、その日の孫をこう振り返っている。
「あの目を見たら、これに賭けなきゃ、ビジネスをやっている意味がないって」
約1週間後、工藤は既存の取引先との関係を切り、3歳下の駆け出しに、ハドソンの全国流通を任せたのだ。
孫が次に向かったのは関西、エレクトロニクスショーの会場だった。
そこに家電量販2位、上新電機の本部長・藤原睦朗はいた。
新しいソフトの卸先を探して会場を歩いていたのだ。
その藤原の目に、創業3ヶ月の日本ソフトバンクという、聞き慣れない社名を背負って、会場を回っていた孫が映った。
ショーが終わって1カ月。
東京の事務所に上新電機の社長・浄弘博光が現れた。
孫は切り出す。
「日本中のソフトを一堂に集めて、御社を日本一の店にしたい。そのかわり、独占で供給させてください。よその店には、いっさい卸しません」
「全部任せる」
浄弘は即答した。
ハドソンに上新電機。
日本ソフトバンクは駆け足で走り出したのである。
月商はあっという間に膨らみ、1982年末には社員30人に。
創業から2年が経つ頃にはその社員は4倍になり年商も約45億円規模にまでなっていった。
会社は順調だった。しかし1983年、孫の体が悲鳴を上げた。
会社の健康診断で引っかかり再検査。
医師には「持って5年」と告げられてしまう。
肝硬変の一歩手前の慢性肝炎だった。
孫は迷わず次の日から入院することを決意。
社員たちには「長期出張」とだけ説明した。
闘病中、孫は本を読み続けた。
3年半のあいだに読んだ本は、約4,000冊。
ランチェスター戦略、孫子の兵法、歴史書、ビジネス書。
1冊読み終われば、すぐ次の1冊に手を伸ばす。
3日に1度、孫は病室を抜け出して、経営会議に参加していたが、それ以外の時間はほとんど本を読んで過ごしていたのだ。
15歳で初めて読み、渡米のきっかけになった、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』も読み返す。
そして本を伏せ、天井を見る。
「夜、ひとり泣きました」
後年、孫がダイヤモンド誌の取材にそう振り返った夜だった。
泣き止んだあとで、気づいたことがひとつあった。
坂本龍馬が日本を変えたのは、28歳から33歳までの、たった5年間だ。
医師に告げられた余命宣告と同じ長さだった。
5年あれば、なにかができる──。
そのなにかのために孫は本を開き続けた。
1984年1月。
父・三憲が、新聞の医療欄に小さな記事を見つけた。
東京・虎の門病院の熊田博光医師が、慢性肝炎の新しい治療法──「ステロイド離脱療法」を、学会で発表したというものだった。
孫は、虎の門病院の熊田の診察室を訪ねステロイド離脱療法をやってみることにした。
当時、慢性肝炎は不治の病とされていたが1986年2月、肝炎は寛解。
孫は、生き延びた。
復帰した孫が机の引き出しから取り出したのは、19歳のときに書いた「人生五十年計画」の紙だった。
「30代で軍資金を貯める」と記した頁を、自分の手で開きにかかる。
軍資金作りの足場として、孫が手をつけたのは、出版部門だった。
月刊『Oh!PC』『Oh!MZ』──1982年に創刊したパソコン専門誌である。
だが、初期の号は書店で売れず、在庫の山を築いていた。
孫は諦めず、その雑誌の中身を、まるごと組み替える。
ページ数を一気に2倍、3倍に増やした。
定価も下げた。
テレビCMも打った。
それまで5万部刷っていたものも倍にして10万部を刷って勝負に出る。
狙いは見事に当たり、書店に並んで3日で本は消えた。
出版事業は、その日から黒字に転じる。
1990年7月、社名を「日本ソフトバンク」から「ソフトバンク」へ変更。
そして4年後に株式を公開し、約200億円を調達する。
その金を握って、孫は太平洋を渡った。
世界最大のコンピュータ展示会、COMDEX。
1993年秋、孫はその会場を訪ねた。
運営会社の会長、シェルドン・アデルソンの前に立つと、こう告げた。
「私はこのコムデックスを所有することになります」
このときの孫の懐に、買収資金は1ドルもない。
だがそれから2年。1995年4月。
孫はアデルソンとの1対1の交渉で、約8億ドル(800億円)を払い、COMDEXの運営権を買い取ったのだ。
その半年後、一息する間もなく孫は米国で次の買収交渉に入っていた。
米最大手のIT専門出版社、Ziff-Davis Publishing。
最終的に約21億ドル(約2,300億円)で買い取ることになる会社である。
買収交渉の途中、Ziff-Davis社長が、孫に1社のスタートアップを推薦してきた。
スタンフォード大学の院生2人が、社員5〜6人で始めた会社だった。
インターネット上の無数のサイトを、人の手で一覧に整理していく「ディレクトリ」サービスを作っていた会社だ。
孫は、社長室長の井上雅博を連れシリコンバレーのオフィスへ飛んだ。
創業者の、ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロ。
ピザとコーラを並べたテーブルで、4人は向かい合った。
帰りの車のなかで、孫は井上にこう聞いた。
「どう思う?」
「いいと思います」
そのひと言で、孫は出資を決めた。
出資額は200万ドル。
社名は、Yahoo!。
COMDEXの8億ドルやZiff-Davisの21億ドルに比べれば、桁の小さな取引だった。
だが、その200万ドルが流れ込んだ先こそ、のちにソフトバンクの帳簿のなかで、最大級の宝のひとつに化けていく。
その名は──Yahoo!。
第3章 株価100分の1、ガソリンを片手に
2000年2月15日の朝。
ソフトバンク本社の株価ボードに、19万8,000円の数字が灯った。
前年の高値は5,433円。
1年で、約40倍に膨らんだ計算だ。
時価総額は21兆円を超え、トヨタ自動車を抜き、日本企業のトップに立ったのだ。
取材を受けた孫は、こう語っている。
「これからはインターネットだ、僕の頭の中は99%インターネットだ」
その日、孫は社長室の引き出しを開けて、1枚の紙を取り出している。
何度も印刷し直してきたであろう、折り目の擦れた紙だった。
20代で名乗りを上げる、と書いた頁。
30代で軍資金を貯める、と書いた頁。
その下に、「40代で大勝負をかける」と書いた頁が続いていた。
孫の指は、その頁の上で、しばらく止まったという。
予定表では、30代で1,000億円の軍資金、と決めていた。
だがいま目の前に灯った数字は、それより2桁大きい21兆円だ。
予定表より、はるかに先まで来ていたのだ。
日本一に届いた朝、孫は、もう次の山を見ていた。
同年、東京の応接室。
孫はその日も、ITベンチャーの経営者たちと面談をしていた。
1社あたり、持ち時間は10分。
机の上に置かれた予定表には、20社近い社名が並んでいる。
日本のIT企業もあれば、海外から来た無名の起業家もいる。
持ち時間は10分あったが孫は、最初の数分で、出すか出さないかを決めていた。
その中に中国・杭州から来た馬雲もいた。
馬雲が孫の前に現れたときは、アリババ・ドットコムを始めて、1年と少しの時だった。
売上は、ほぼゼロ。
赤字も赤字。
机の上に数枚の資料を広げ、中国の小さな商人をインターネットで世界の市場とつなぐ、という夢を語った。
利益の見込みも、来期の数字も、語らなかった。
数分が経つか経たないかの頃、孫は馬の話を遮るように、約20億円──2,000万ドル──の出資を即決した。
後年、孫はこの時のことをこう振り返っている。
「目がキラキラしていて、僕は心を掴まれた」
その日の応接室では、誰もまだ知らなかった。
この20億円が、14年後にいくらに化けるのかを。
だがその前にひとつの試練が孫を襲う。
2000年3月、米ナスダックでドットコムバブルが弾けたのだ。
その崩壊は、すぐに日本の株式市場にも飛び火した。
3月、4月、5月。
月をまたぐたびに、ソフトバンクの株価ボードの数字は、下の桁が落ちていった。
世界中のネット銘柄が、評価額の2割、3割以上を、月単位で吐き出した時期である。
2月に19万8,000円をつけたソフトバンクの株価もピークから約100分の1近くまで崩れる。
孫の個人資産の9割超も、そこで消えた。
Forbesの世界長者番付の上位に名前を連ねていたが、静かに消えていったのだ。
東京。ソフトバンク本社の役員会。
2つの案が並んだ。
Plan A。インターネット事業からの段階的撤退。
Plan B。ネット事業のさらなる強化。
出血を止めるか、もっと深い出血を覚悟して前に進むか。
赤字の数字を見れば、答えは明らかだった。
しかし孫はPlan Aをその場で押し戻す。
会議室は、静まり返る。
「99%インターネットだ」と語ったあの口が、その9割を失ったあとも、まだ同じことを言う。
2001年9月、孫は、インターネットの蛇口を、自分でこじ開けにいく。
ヤフーと共同で、Yahoo!BBのADSLサービスを始めたのだ。
月額は税抜2,280円。
当時、他社のADSLは月5,000〜6,000円、NTTのISDNは月1万円超。
同じ「速いネット回線」を、孫は半額以下にして街角に持ち出したのだ。
駅前にパラソルを立て、赤い紙袋に入ったADSLモデムを、通行人に無料で配り始める。
「家でつないでみてください、気に入らなければ返してくれていいです」
希望者には、その場で開通申込書を書いてもらう。
だが、家にADSLを実際につなげるには、ひと手間必要だった。
各地のNTT電話交換局──局舎──のなかに、ヤフー側の機器を取り付ける工事が要るのだ。
電話線も、その局舎も、持っているのはNTTである。
Yahoo!BBは、その線と建物を借りる側だった。
その工事が、数ヶ月たっても、進まない。
工事が進まないから売り上げもない。
月十数億円の赤字が、毎月、ただ垂れ流されていく。
回線が開通されないかぎり、何万袋配ったモデムも、ただのゴミだ。
2001年6月29日、霞が関、総務省。
孫は自ら、直談判に乗り込んだ。
担当部長の机の前に立つと、こう切り出した。
「インフラ開放を認めなければ、ここでガソリンをかぶって焼身自殺する」
蛍光灯の下。担当部長は黙りこみ、NTTは、回線の開放に応じた。
何ヶ月も局舎の前で止まっていたYahoo!BBの工事は、その日を境に、堰を切ったように動き始めた。
2003年12月、日本のADSL回線数は1,000万を突破する。
2001年1月の時点では、1万6,000回線あまりだったのがたった2年で600倍になったのだ。
Yahoo!BB事業は、2001年度から4期連続赤字だったが、累計2,000億円超の損失と引き換えに、日本の家庭のインターネットの太さは、ISDNの20倍以上になった。
第4章 クパチーノの密談、1兆7,500億円の賭け
Yahoo!BBの戦の真っ只中で、孫の目は、すでに次を追っていた。
米国ではAppleのiPodが、世界中の若者のポケットに入り込みつつあったのだ。
次のインターネットは、家の机の上ではなく、人々のポケットの中で動き出す──孫はそう確信していた。
2005年、米国カリフォルニア州クパチーノ。
Apple本社、スティーブ・ジョブズの執務室。
孫は、東京から太平洋を渡って、その部屋に飛び込んだ。
孫は、ジョブズの机の上に、1枚の紙を置く。
紙には、手書きのスケッチが描かれていた。
iPodに、電話機能をつけた絵。
孫はそれを指差して、日本での独占販売権を譲ってほしい、と切り出した。
このころiPhoneという名前は、まだ世に出ていない。
誰もそんな製品の存在を知らない時期である。
だが孫は、いずれジョブズがこういうものを作ると、確信していたのだ。
ジョブズは、その紙を裏返して笑った。もう一度、表に戻すと、こう告げたと。
「キミはクレイジーだ。まだ誰にも話したことないのに、キミが最初に会いにきた。だからキミにあげよう」
口約束だった。
孫は、その場で書面化を求めたがジョブズは、首を振った。
「ノーだよ、マサ。署名なんかできない。だってキミはまだ携帯キャリアすら持っていないじゃないか」
携帯キャリア──当時の日本ではNTTドコモ、au、ボーダフォン日本法人の3社だけだった。
孫は、執務室を出る前に、もう一つの言葉を残している。
「アナタが約束を守ってくれるなら、ワタシも日本のキャリアをつれてくるから」
スケッチをポケットに戻し、ジョブズに頭を下げて、孫はドアを閉めた。
答えは、ひとつしかなかった。
日本のキャリアを、買うのだ。
2006年3月17日、東京。
孫は、英国Vodafoneの日本法人を、1兆7,500億円で買収すると発表した。
当時、日本企業によるM&Aで、これより大きいものはなかった。
しかし市場の評価は、冷たかった。
「割高」「狂気の沙汰」と書いた媒体もあった。
ボーダフォン日本法人は当時、競合のNTTドコモ・auに大きく引き離されていた3位の事業者である。
それを1兆7,500億円で買う。
借金の返済は、これから利益で補うのだ、と孫は説明するが市場は、それを信じなかった。
発表直後、ソフトバンクの株価は急落。
4月27日、買収を完了。
同年10月1日、商号を「ソフトバンクモバイル」へ、ブランドを「Vodafone」から「SoftBank」へと、切り替えていく。
2年後、約束の日が来る。
2008年7月11日。
ソフトバンク表参道には開店3日前から、店頭に列ができていた。
前日の夜には600人。当日の朝には1,500人を超える。
列の最後尾は、午前3時を回ったころ、渋谷消防署まで達した。
並んだ人の多くは、大学生か、大学院生だ。
3年前にクパチーノで孫がジョブズの机に置いた、あの1枚の紙のスケッチを、現物として、誰よりも早く手にしたい──その1点だけだった。
夜のうちに、孫は予告なく店頭に現れている。
3日前から並んだ客のあいだを歩いて、ねぎらって帰ったのだ。
朝7時。販売開始の10分前、孫はもう一度、店頭に立っていた。
カウントダウンの声に向かって、孫は告げる。
「今年は、ケータイが『インターネットマシン』になる年です」
シャッターが上がり先頭の50人が、店内に吸い込まれていく。
第5章 10兆円ファンドと、WeWorkの夜
iPhoneが日本に上陸した、2年後の2010年6月25日。
創業から、30年近くが経っていた。
東京、ソフトバンクの定時株主総会。
壇上で、孫は「新30年ビジョン」のスライドをめくっていた。
テレパシー。
人工超知能。
脳とコンピュータが直接つながった先の世界。
会場の椅子から見上げる株主たちの目に、まだ存在しない未来の絵が、次々と映し出されていく。
30年前にリンゴ箱の上に立って「30年後には豆腐屋のように一丁、二丁と数える会社にする」と宣言した24歳の男は、この時52歳。
彼が前回の30年に立てた目標──1兆円企業──は、すでに足元にあった。
そして、最後のスライドで、孫はこう宣言した。
「ソフトバンクは300年続く企業になる」
スクリーンに白く浮かんだ「300」の数字を、会場は黙って見ていた。
孫は19歳の頃、バークレーの図書館でサイエンス雑誌の見開きの写真の前から、しばらく動けなくなったことがある。
マイクロプロセッサーの拡大写真だ。
世界のあらゆる機械の中に、その小さな半導体が刻まれていく時代が来る──そのとき孫はそう確信したという。
その時代の心臓部を作る会社が、英国にあった。
1990年、ケンブリッジで設立されたARM Holdingsだ。
半導体の設計図を、世界中のチップメーカーに売っていた会社である。
2016年7月、地中海。
トルコ南西部のマルマリス。
ARM Holdingsの会長スチュアート・チェンバースは、休暇中を楽しんでいた。
地中海のクルーザーで遊んでいたところに、孫が東京からチャーター機で会いに来る。
ロンドンからは、ARMの新CEOサイモン・シガースを乗せたチャーター機が到着する。
サンノゼからは、ソフトバンクの投資責任者のアロック・サーマが駆け付ける。
地中海のリゾートのテーブルで4人が一堂に会したのだ。
孫が机の上に置いたのは、約240億ポンド──日本円で約3.3兆円──の買収提案だった。
2週間後の7月18日、ロンドン。
孫は、ARM Holdingsの買収を発表する。
ARMという会社の名前は、業界の外では、ほとんど知られていなかった。
だが、世界中のスマートフォンを分解して、なかの心臓部分の半導体を取り出してみると、その9割以上に、ARMの設計が刻まれている。
ARMは、半導体そのものを作らない。
設計図を売る会社だった。
Apple、Qualcomm、Samsung──競合し合うチップ会社は、全員、ARMから設計図を買い、それぞれの工場で焼いていたのだ。
その会社を、孫は約240億ポンド(日本円で約3.3兆円)で買うと言ったのだ。
ソフトバンク史上、最大のM&Aだった。
資金の捻出のために、孫は、保有していたアリババ、Supercell、ガンホーの株を売却。
それで約2.3兆円。
残りの1兆円は、みずほ銀行からのつなぎ融資でどうにか間に合わせた。
会見で、孫はこう語った。
「IoTは人類史上もっとも大きなパラダイムシフトになる。その中心の会社はARMだ」
IoTは、Internet of Thingsの略。
家電や自動車などモノ全部がインターネットでつながる時代を指す。
その時代がいつ来るのかは、まだ見えていなかった。
だが、来た時に、その装置の心臓部はARMが握る──それが孫の見立てだった。
またもや市場の評価は、冷ややかだった。
「割高」「3兆円も出す価値があるのか」と書いた媒体は、1社や2社ではなかった。
記者会見の翌日、ロンドンの新聞も、東京の新聞も、似たトーンで揃った。
しかし孫正義という男は前に進むだけだ。
3.3兆円は、孫がそれまでに動かした最大の金額だったのだが、すぐに更新されることになる。
2016年9月3日、東京・赤坂。
迎賓館の応接室で、孫はサウジアラビアの副皇太子、ムハンマド・ビン・サルマンと向き合っていた。
サルマンはサウジ王家の、若き実力者である。
サウジアラビアという国家は、原油の上に乗った王家の国だ。
だが、サウジ王家は、原油の値段が下がる未来に備えて、原油以外の収益源を探していた。
その金庫番が、Public Investment Fund──略してPIF──と呼ばれる政府系ファンドだった。
机の上には、孫が描いた絵が広がっていた。
10兆円規模のファンドの構想、そこに集まる世界中のテクノロジー企業、その先に立ち上がる新しい産業。
会談時間は、45分。
その45分で、PIFが孫の新ファンドに出す金額が、決まった。
450億ドル。日本円にして、約5兆円。
1分あたり、10億ドル換算の交渉であり、1社の出資金額として、ベンチャー投資の世界が見たことのない桁であった。
2016年10月14日、孫は、その金を中核としたファンドの設立を発表。
翌2017年5月20日、ソフトバンク・ビジョン・ファンド第1号が立ち上がる。
最終的な規模は、986億ドル。日本円にして、約10兆円のファンドだった。
業界はすぐに、このファンドにあだ名をつける。
「ベンチャー投資の核兵器」
ファンドが1社あたりに投じる金額は、数百億円から数千億円。
それまでのベンチャーキャピタルの世界では、1社にこれほどの金額を投じるという発想自体が、ほとんどなかった。
1ラウンドの調達額が一桁飛び、評価額の桁もまた飛ぶ。
ファンドは、Uber、WeWork、滴滴出行、Coupang、OYO──69社まで広がっていく。
当たれば桁違いの利益が返ってくるが、外せば、桁違いの損失が積み上がる。
どちらに転ぶかは、まだ誰にもわからない。
そのうちの1社の物語は、ファンドが立ち上がる前から始まっていた。
2016年12月6日、ニューヨーク。
孫は、マンハッタンにあるWeWorkの本社を視察していた。
CEOはアダム・ニューマン。
30代後半のアメリカ人起業家で、その年の初め、孫はインドの「スタートアップ・インディア」という会場で彼のスピーチを聞いて以来、一度会いに行きたいと思っていた。
予定された視察の時間は、2時間。
ところが、孫は12分でツアーを切り上げた。
そのままニューマンを自分のSUVに乗せ、マンハッタンを北上する。
38ブロック先のトランプ・タワーまでの数十分が、続きの面談時間になった。
車中、ニューマンが用意してきた資料を、孫は手を振って下げさせる。
代わりに、自分のiPadを取り出した。画面の上に、孫は直接、数字を書きつける。
44億ドル。日本円にして、約4,800億円。
強気で知られたニューマンでさえ、一瞬、言葉を失った。
WeWorkの評価額は、その瞬間、200億ドルに跳ね上がった。
そこから2年で、孫の出資はさらに膨らんでいく。
最終的にソフトバンクとビジョン・ファンドがWeWorkに投じた金額は、約100億ドル(約1兆円)になり発行済株式の29%を、孫が握ることになった。
2019年1月、孫はWeWorkにさらに20億ドルを追加出資する。
評価額は、その時点で470億ドルに届く。
だが、夏のあいだに、そこが崩れはじめる。
IPOのために、WeWorkは自社の中身を説明する書類を提出する。
市場と記者が、それを徹底的に読み込むと3つの問題がでてきた。
WeWorkはオフィスを借りて分割転貸しているだけの不動産業なのに、自分を「テクノロジー企業」だと説明していたこと。
CEOニューマンが、ひとりで会社の重要な決定を覆せる権限を持っていたこと。
そして毎年、巨額の赤字を出していたこと。の3点だ。
投資家は、口を揃えてこう言った。
「これは違う」
2019年9月17日、IPO撤回。
WeWorkの値段は、その後の話し合いで、1月時点の470億ドルから最大で47分の1まで切り下げられ、ソフトバンクが投じた金のうち、1兆4,000億円超が、帳簿から消えた。
2019年11月、東京。
孫は深く頭を下げ、英語でこう認めた。
“I was foolish”
(私は愚かだった)
翌2020年3月23日、ソフトバンクグループは、4.5兆円分の資産を売る計画を発表する。
手元のアリババ株などの「宝」を売って、その金で自社株を買い戻し、銀行への借金を減らす。
10年前に「300年続く企業になる」と語った男は、その日、攻めから守りに切り替わった。
第6章 50年計画の最終章、AIへ
2022年8月、東京。
孫は、アリババ株を売り始めた。
22年前の応接室で、数分の話を聞いて20億円を即決した、あの会社の株である。
アリババは、2014年に米国で上場し、孫の20億円は、上場時点で約6兆円分の株式評価額に化けていたのだ。
「ビジネス史上最大級のリターン」と各国の媒体が書いた。
孫は、最大2億4,600万ADR──アメリカ預託証券──を、先渡売買契約で売却。
先渡売買契約は、現物を渡す前に値段を確定する手法。
市場で売り浴びせる前に、銀行や投資家に対して、決まった日に決まった値段で売る、と先に約束しておくというものだ。
そして2022年7-9月期決算に約4兆6,000億円の売却益が計上された。
20年にわたってSBGの業績を引き上げてきた最大の柱が、これで帳簿の主役から外れたのだ。
22年前、東京の応接室で「目がキラキラ」の馬雲に20億円を即決した男が、6兆円超まで膨らんだ宝を、自分の手で手放したことになる。
同じ頃、孫はこう公言している。
「しばらく守りに入る」
翌2023年、ニューヨークの株式市場で、ある銘柄が再び上場の鐘を鳴らす。
2023年9月14日、ナスダック──米国の新興企業向け株式市場。
ARMが、再上場したのだ。
ARMはもともと、ロンドン市場の上場企業だった。
7年前、孫が約3.3兆円で買って、市場に「割高」「3兆円も出す価値があるのか」と書かれた、あの会社である。
孫が約3.3兆円で買い取ったときに市場から外され、SBGの手元に取り込まれていたのだった。
買収当時、市場は「割高」「3兆円も出す価値があるのか」と書いたが、あの日から7年。
孫はARMを上場させず、自分のもとに置き続けていたのだ。
公開価格は、51ドル。
初日、ナスダックの取引が始まると、ARM株には、買い注文が殺到し終値は63.59ドル。
1日で24.7%も上昇する。
時価総額は、約600億ドルに到達し2023年最大のIPOとなった。
SBGは、上場後も、ARM株式の約90%を保有し続けている。
市場に流通したのは、わずか1割。
価格はさらに上がる余地を残していた。
「3兆円も出す価値があるのか」と書いた7年前の媒体は、その日、こう書き直していた。
「先見の明」
7年遅れで、相場が孫に頭を下げたのだ。
それから2年後、孫はすでに国家の机に並ぶまでに至る。
2025年1月21日、米国ワシントンD.C.。ホワイトハウス、ルーズベルトルーム。
大統領執務室の隣にあるその部屋は、歴代大統領の肖像画が、壁に並んでいる。
机の上には星条旗。
報道陣が囲むその机のまわりに、4人の男が座った。
ドナルド・トランプ大統領。
孫正義。
サム・アルトマン──OpenAIのCEO、ChatGPTを世に出した男。
ラリー・エリソン──Oracle会長。
3人の経営者と、1人の大統領。
そして世界に向けて発表されたのは、Stargate Project。
合弁会社(LLC)の名前で、内容は、米国の各地に巨大なデータセンター群を建てる計画だ。
AIを動かすための物理基盤を、4年かけて積み上げる。
投資総額、5,000億ドル。
日本円にして、約75兆円。
初年度だけで、1,000億ドルを即座に配備する予定の超大型プロジェクトだ。
合弁の出資者は4つ。
財務はソフトバンクが背負う。
運営はOpenAIが握る。
建設はOracle。
そしてもう一社、UAEの政府系ファンドMGXが、共同で資金を入れた。
Oracleはすでにテキサス州で、100万平方フィート——東京ドーム2個分の床面積——のデータセンターの建設に、取り掛かっていた。
「10万人規模の雇用が米国で、ほぼ即座に、生まれる」
トランプはそう語った。
そしてStargate LLCの会長に就いたのは孫正義だ。
19歳のとき、紙に書きつけた「50代で事業を完成させる」の頁。その頁が、75兆円規模のStargate LLCの会長という形で、いま目の前で立ち上がったのだ。
同じ年の暮れ、東京で、もうひとつの数字が確定する。
孫がOpenAIに金を入れ始めたのは、2024年9月のことだった。
ビジョン・ファンド2から、22億ドル。
2025年3月31日、孫はOpenAIと、最大400億ドルの追加出資契約を結ぶ。
4月、第1回として75億ドル。
年末の12月26日、第2回として225億ドル。
この年に孫がOpenAIに投じた金額は、410億ドルに達した。
日本円にして、約6兆円超。
OpenAIの株式の、約11%を、孫が握る形となった。
しかしその2か月後、孫はさらに300億ドルの追加出資契約を結ぶ。
これが完了すれば孫がOpenAIに投じた金額は646億ドル、OpenAIの株式持分は約13%に届く。
2026年4月、孫の純資産は、推定8兆4,100億円。
柳井正を抜いて、日本長者番付の1位に立った。
25年前のITバブル崩壊で個人資産の9割を失い、20年前のクパチーノで紙のスケッチを差し出した男が、日本一の富豪になっていた。
東京、SBG本社。
68歳になった孫は、社長室の引き出しを開ける。
49年前、19歳のときに書きつけた、あの紙が、そこに入っていた。
何度も印刷し直してきた、折り目の擦れた紙。
20代で名乗りを上げる。30代で軍資金を貯める。40代で大勝負をかける。50代で事業を完成させる。60代で事業を後継者に引き継ぐ。
49年で書いた頁の4つはもう完了した。
指は、「50代で事業を完成」の頁の上で、しばらく止まった後、最後の「60代で事業を後継者に引き継ぐ」の頁の上に、進んだ。
19歳のときに書いたとおりに、孫はいま生きている。
だが、最後の頁は、まだ書き終えていない。
おわりに
孫正義の45年は、まだ来ない未来に金を張り続けた45年だった。ソフトウェア流通、インターネット、ADSL、スマートフォン、IoT、人工知能——彼が金を張ったとき、そのどれも、まだ誰の生活の中にも来ていなかった。68歳。彼の前にある数字は、いまも、まだ来ていない時間の中にある。
筆者あとがき
取材中、何度か立ち止まったのは、孫正義の即決の速さだった。アリババの20億円を数分で。WeWorkの44億ドルを12分で。サウジPIFからの450億ドルを45分で。決断にかける時間も、させる時間も短すぎて、合理的な検討の積み上げでは、説明がつかない。
直感としか呼べない速さで、彼は何兆円もの金を動かしてきた。
取材を通じて、その直感の正体を探してみたが、答えにはまだ手は届いていない。
《参考資料》
ソフトバンクグループ公式(沿革・プレスリリース)/ソフトバンク株式会社(Yahoo! BB特集)/日本経済新聞・日経BOOKプラス/ITmedia/マイナビ/Wikipedia(日本語版・英語版)/ダイヤモンド・オンライン/プレジデント/東洋経済オンライン/THE21オンライン/Business Insider Japan/Bloomberg/Reuters/TechCrunch/Fortune/CNBC/NewSphere/News Postseven/マネーポスト/現代ビジネス/Logmi Biz(孫正義 ジョブズ会談 書き起こし)/Apple Newsroom/杉本貴司『孫正義 300年王国への野望』日本経済新聞出版/佐野眞一『あんぽん 孫正義伝』小学館
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この記事を書いた人
wata9488
フリーライターとして活動しています。 東京在中AI中毒末期。Claude CodeとCodexに人生をささげてます。




























